2022年8月7日日曜日

根エも葉アもない幻-オペラ「卍」に書いたこと

 オペラ『卍』について、台本を書く際、僕は作中で実際に行われている会話のみを用いて組み立てることを基本的なコンセプトとした。これを、心理戦に欠くと不服に思われた向きがあったようだ。たしかに、僕の台本では「わたしこないだから大変失礼してました」のような他愛もない挨拶が表に立っており、綿貫に至っては「僕は綿貫いうもんです」「綿貫いう男は僕です」と自己紹介ばかりしている。作中の会話が使えない部分、すなわち物語を補足した部分であっても、「阪神電車で梅田まで」であるとか、「観音さん描いてるのんやけど」といった、作中で実際に起きている事象の提示に徹した。唯一、園子が声には出していない声を歌う場面が第二幕にあるが、それも、「どこまで厚かましいねん」以降、園子から見える光子と綿貫の状況を説明しているだけである。

 つまり、僕は登場人物に自分の心情をほとんど歌わせなかったわけであるから、心理戦を省いたと思われるのももっともなこととは言える。

 原作には、あくまで園子が「先生」に語っている物語であるという前提がある。秘密の守られた2人きりというプライベートな空間が前提としてあるから、園子が自分自身の心に触れても問題ない。が、舞台化において、その設定をすべての場面に用いることはできない。しかも園子以外の三人の心理は結局園子の想像でしかないというのも、また、本作の大前提である。原作に忠実であろうとすればするほど、園子の妄想する光子や孝太郎の心理を、本人の口を動かして語らせるわけにはいかない。であるから、新聞記事を書くような真面目さで、作中で確実に起きている事件、確実に人物が発した言葉を検証し、ひとつひとつ積み重ねていくことを基本的なコンセプトとしたのである。

 それでも十分だと僕が確信するのは、誰が誰に向かって、どういうシチュエーションで、どういうイントネーションで発せられる言葉なのかが音程化できれば、恋をしているのか、尊敬しているのか、それとも怪しんでいるのか、あるいは憎んでいるのかは自ずと伝わるものだというオペラ作家の先達ヤナーチェクの教訓を深く信頼するからで、だからこそ、翻訳なしでも外国語のオペラアリアに涙するようなことは起こり得るのだ。作曲家がオペラにおいてなすべきたったひとつの仕事は、登場人物の関係性を示す音程の組織化である。

 そして、大阪ことばのアクセントやイントネーションを音程化するのに日本的な音程が実に便利な道具であればこそ(部分的ではなく)全編にわたって歌い手にそれを宛がったのである。念のため申し上げれば、僕は「日本伝統音階」なるものはそもそも存在しないと考える立場であって、解説では小泉文夫と柴田南雄という名を挙げ「日本的な音程」という言葉で書き示した。音程を取り出して下から順に並べてペンタトニックだとは考え方の順序が違う、というような記述が、柴田の著書『音楽の骸骨のはなし』にもあったはずだ。

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 さて、作中の例を挙げる。第二幕、光子が妊娠しているとは初耳だと園子が言う。それに対し、綿貫は「初耳」と驚く。彼は無論驚いてなどいない。園子の返答は彼にとって織り込み済みで、わざとらしく驚いて見せ、周囲にも(先日の演出の場合なら「梅にも」)聞こえるように園子の言葉を繰り返しているのである。狙ったとおりの返答を導き出せた邪悪な悦びだ。そして畳みかけるわけである。「なんで隠すんでしょう、ああ、お姉さんに嫌われる思て嘘を吐いてるのんと違いますか?」…この「ああ、」など、どこまでもわざとらしく演技掛かっていなければ、隠し通せない悦びがなければ、二人の関係は明確にならない。

 僕はこれをおめでたいお正月のような音程で書いたわけだが、内容と音階(僕は音程と言う)の不一致と見た評者は、きっと上質な生活を送ってこられ、おそらくゆすりやたかりの類に遭遇したことが無いのであろう。羨ましい限りである。

 綿貫は(原作に忠実になれば自然とそうなるのだが)他人の心に土足で踏み込む作中唯一の人物であって、ただ綿貫のみが、園子や光子の心理を勝手に覗き込み、勝手に分析し、他人のプライバシーというものの領域を勝手に破る。その結果としての新聞騒ぎだ。性欲の話を心の問題で上書きして、根も葉もない幻を現実と信じ込ませ、ゆすり、たかる。ある意味ではもっとも良く相手のことを考えている人であり、相手に合わせて生きている人である。確立された自己が無い劣等感の跳ね返りで、自分は特別な存在だと思い込んでいる平凡な人特有の暴力性は、現実と空想とがない交ぜになった妄言で表現される。

 柿内夫妻(評者の「垣内」は誤植)は本来、良くも悪くも自分は自分と考える人たちで、世界標準の、近代的に教育され自立した自由主義的個人である。ゆえに(変な言い方だが)第一幕は平凡な三角関係で済んでいる。つまり、平凡な性欲と、平凡な嫉妬だ。園子と孝太郎は第一幕の終わりのように平凡な喧嘩をして、平凡な離婚をすれば良かった。その三人が心の問題に汚染されるとどうなるかが第三幕であって、園子のような浮世離れした人など、特に、綿貫的な妄言に対する免疫がない。三人は三人で仲良くするという薄気味の悪い大義を掲げるようになり、その実、常に相手の心理を邪推し合う関係に陥る。「綿貫に似てきた」のである。原作を構成する要素は様々あるが、僕は何よりも、ここを重視した。「まったく今日の話として通ずる主題と信じる」と書いたのは、この意味だ。

 原作で「心」ないしは「心理」という単語が、どのタイミングから、どのような用法で使われ始めるのかを探してみると納得していただけるだろう。性欲のように具体的な感情でなく、妄想上の相手の心理のような、不確かなものを行動の軸とすることで、人物の行動にどのような変容が生じたのかが見える。そして、そんな不確かなものを無条件に良いものと捉え、道徳として従うよう同調圧力のかかるのが今日の社会であって、軍事の話を心の問題に上書きした大日本帝国のように、それは必滅の道なのである。

 ゆえに、僕が書いたのは「日本」ではない。古き良きイノセントな「日本」ではない。そんなものを懐かしむ仕草など原作のどこにも書かれていない。最後の観音経以外、書かれていないものは足していない。原作に描かれているのは今日の社会である。生きる勇気だの嫌われる勇気だの人を操る最強の心理術だのという本ばかりが刷られ売られていく今日の社会、妖怪だのパワースポット廻りだのスピリチュアルなもので行政が商売を始める今日の社会、「西澤健一は恐ろしく〈正直〉なのだろう」などという僕の内面を勝手に想像して恥じない評を書く今日の社会、男子に劣情を催させる不道徳な髪型とポニーテールを断じる今日の社会、凶悪犯罪を加害者個人の心の問題で片づけてきた今日の社会、教育を受けた個人がオカルトに染まりカルト化していく今日の社会、愛国心を煽る今日の社会、昨日から続く今日の社会である。同性愛をもって変態性欲だのとは今日日(日本のような遅れた国を除いて)主題にならないし、愛欲は人間を形作る要素の一つに過ぎないが、心の問題を公の場で沙汰する気持ち悪さは、今日の劇場で今日の聴衆と分かち合うべき主題となり得る。

 オペラは初めてだという友人から、しみじみと「綿貫がマジで気持ち悪かった」という感想をもらった。最高の誉め言葉で嬉しかった。気持ち悪く見えるはずなのである。

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 感想のなかには「悪人の光子が最後は仏になるのは納得できない」といった意見もあった。「善人なおもて往生を遂ぐ、況んや悪人をや」であるとか「わが機の信不信、浄不浄、有罪無罪を論ぜず」といった750年前から850年前の智慧を繰り返せば、人間の仏性はその人の行いの善悪とは無関係だから光子は成仏するのだ。思うに、善い行いを積み重ねても良い人でしかないし、悪い行いを積み重ねても、結局悪い人でしかない。良い人も悪い人も、言うなれば平凡な凡夫であって、凡夫に仏性は無い。

 光子が成仏するのは、彼女が美しいからでもない。彼女は美しかったおかげで美しい仏になったが、彼女もやはり、人よりかは美しい平凡な人でしかない。彼女は今際の際でまったくこの世を忘れ去ったから仏になった。彼女一人だけが、脇仏になるだの、焼きもち焼かずに三人仲良くなりたいだのと祈っていないのだ。とても地獄は一定すみかぞかしと打っ棄って、もはや園子や孝太郎のことさえ、ある意味どうでも良くなった。手段こそ最悪であるが、ともあれ、心の問題から自由になった。生来・本有の彼女に戻ったとも言える。

 僕たち音楽家の場合、ここはフォルテ、ここはクレッシェンド、ここからリタルダンドをかけて、ここでテンポに戻るなどと、聴衆の前でそれらを積み重ねて突き抜けた演奏になるかといえば、ならない。そういったものをすべて忘れ去ったとき、舞台の上でひとつの空白となったとき、実力の有無、名声の有無を問わず、神々しい演奏になる。聴衆の集中力を一身に浴びる。幸せな音楽家なら一度は味わう忘れがたい経験だ。それならばと、邪念を捨てよう捨てようと思って捨てられるものかと言えば、うまくは捨てられないものだ。成仏や往生を、僕はそれと似たようなものと思っている。

 もっとも、正しい行いと正しい信仰で天国に行けると信じて身を律するのも悪いこととは言えないかもしれない。僕たち音楽家も、練習の段階ではフォルテだのクレッシェンドだのをひとつひとつ積み重ねる以外にない。が、自己啓発本の教え通りに「ついてる」と一日1,000回唱えるといったような、強迫的な射幸心に誰もが汚染されている今日の社会では、なかなか納得されづらい表現だったのかもしれない。

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 光子だけが燦然とした仏身になり、脇仏になれず無様に行き倒れている孝太郎の画を稽古ではじめて見たとき、どうして僕は何の説明もしなかったのに、しかも僕には想像できない形でこれを実現してくれたものかと、三浦安浩氏の演出にしたたか感動した。そして本番で、演者が、オーケストラのひとりひとりが、どういう集中力を僕に向けてくれたのかを僕は全身に浴びている。こんな野暮な解説をせずとも、僕の意図を僕よりも深いところで、音によって汲み取ってくれた皆様には感謝の言葉も見つけられない。

 一方で、僕がワーグナーを心底嫌っているように(僕の場合、おそらく同族嫌悪だ)残念ながら僕の音楽とは肌の合わない方がおられることも僕は良く知っている。仕方のないことではないか。であるなら、自分の心を欺くことなく、何の遠慮もなく、矢代秋雄のジョリヴェ評のように「まず私は西澤の顔が嫌いだ」と、言うてくれてもええんやで。