2021年8月13日金曜日

新作紹介 24の前奏曲

夏休みの自由研究に、ピアノのための24の前奏曲を書きました。

課題としましては、(1)もちろん24調すべて使うこと。24調を廻る手段は半音でも5度でもなく、3度です。そのアイデア自体はリスト『超絶技巧練習曲』と似ていますけど、配置は異なります。内表紙にはコンセプトを説明するトンネッツ図を付しておきました。(2)全曲見開きに収めること。要するに2ページ以上の曲は書かないこと。(3)音域を限定すること。早い話、ヘ音記号を使わないこと。以上3点です。

10年ほどピアノのソロ作品からは遠ざかっていたのですが、某氏から「西澤さんにとって調性とは何かということを書いてほしい」というご意見があって、なるほどその手があったかと思い、アイデアが降りてきました。本当は「24の前奏曲とフーガ」を所望されたんですけど、フーガまで含めるとオペラどころじゃなくなっちゃうから、前奏曲だけでごめんね。

以下のサイトに公開しておりますので、よろしくお願いします。

Piascore https://store.piascore.com/scores/112148

Score Exchange https://www.scoreexchange.com/scores/557583.html

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僕がなるほどと思った「その手」について、少々補足を。

「調性とは何か」という問いは受け取りようによっては少々意味が限定されてしまうので、「どのように中心音を説明するか」という問いと言い換えましょう。音楽の歴史においては、様々な音程が「中心音を説明」するための道具として検討されてきました。声楽が中心の中世の頃は上下2度で説明していたものが、器楽が発達したルネサンスの頃からは上下5度になっていきます。下の5度=サブドミナントが「一種の発想の飛躍」であったとは、以前書いた通りです。これがいわゆる機能和声となって古典・ロマン派の基をつくり、今度は上下3度の扱いが検討されていきます

その古典・ロマン派において、「一種の発想の飛躍」の役割を果たした音程は、増5度。つまり増三和音でしょう。その扱いはモーツァルトからウェーベルンに至るまで共通した特徴が見出されます。が、終戦を境に状況が変わる。ポスト・ウェーベルン世代となると、とたんに3度の影響が薄くなっていく。代わりに扱われ始めたのは7度、そして増4度です(…となると、3度ではなく5度を扱ってそこに至ったバルトークの特殊性を思うのですが。)

ルネサンスからバロックが第3倍音に習熟する過程とすれば、バロックから古典・ロマン派は第5倍音に習熟する過程と言える。その次の世代として、第7倍音や第11倍音…つまり、7度や増4度が検討の対象になっていくのは自然な流れでしょうし、その文脈でスペクトル楽派のような試みも当然のことと理解できます。もっとも、古典・ロマン派の3度のように、7度もまた長短問わず検討されるべきでしょう。現代音楽はもちろんのこと、ポピュラー音楽の世界でも、いわゆるメジャーセブンスのコードのような形で生のままの7度が扱われ始めるのは同時代的な出来事と思います。

僕は野良の作曲家なので、どなたか、こういう論文を僕の代わりに書いてください。

以上、バッハが2度間隔の配置で5度を表現し、ショパンが5度間隔の配置で3度を表現したのなら、3度間隔の配置で7度を表現する曲集があっても良いじゃないか、というのが、僕の思った「その手」であります。

古き良き時代やら、19世紀的なものへの憧憬やら、僕は縁のない者であり。しかし同時に、戦後のあらゆる前衛技法も(若い頃は夢中になって聴きましたけど、しかしながら)僕にとっては19世紀以前の音楽と等しく過去の出来事で。付け加えれば、符丁化された「感動」など眼中にあるわけなく。ただ単に、素材を把握しやすい形にするという一点の目的のために、僕は作曲家としていわゆる「調性音楽」を扱うようになったのですが、今回の曲集は、そうした僕の立場をもっとも良く表したものになったかもしれない、と思っております。

全曲弾くと35分くらいです。ピアノ弾きの皆さんの挑戦をお待ちしております。

2021年8月9日月曜日

符丁となったスポーツ~東京五輪

 男子マラソンの表彰台に立つ金メダリスト、エリウド・キプチョゲの瞳をテレビの画面に見たとき、はじめて僕の仕事の手が止まった。僕はスポーツに興味がないから、彼の今までを知らない。どんな成績を残してきた人かも知らない。もちろん(この記事を書こうと思うまで)名前も知らなかった。が、これは深い思索を重ねてきた人の目だ、と直感的に思った。なにか宗教的な威厳をたたえた瞳のように感じ、そして静かに胸を打たれた。

 彼の眼は、東京オリンピック大会の開閉会式を通して唯一、僕が心動かされたものだった。そして以下の記事を読むに、僕の直感は間違っていなかったようである。

 キプチョゲは、たとえば「生きていくうえで、己に打ち勝てる者だけが自由になれる。もし自己抑制ができないなら、気分や情熱の奴隷になってしまう」とか「木を植えるのに最適な時は25年前だった。2番目に最適な時は今日だ」といったことを話すタイプだ。(Scott Cacciola)©2018 The New York Times/朝日新聞GLOBE+ 2018年11月5日付

 コロナ禍における大会の是非、膨大に膨れ上がった予算、開閉会式にまつわる組織委員会の様々な不祥事、それらのことはすでに多くの論が割かれている。今さら繰り返す気にもなれない。我が国がクリエイターの創作物に敬意を払わない国であることは、「文春砲」に教えられるまでもなく、生身で経験している。今さら驚きもしない。

 ともかく、ひとつの収穫が終わった。スポーツ界にとって「木を植えるのに最適」な「25年前」が始まるが、基礎研究にもカネを出し惜しみする我が国で、自国開催の五輪に向けて取り繕われてきた各種スポーツ競技への支援は、このまま継続しゆくものだろうか。相対的に下がるのが自然ではないかと思う。「感動をありがとう」と言ったその口で、今後は選手育成の予算に触れるわけだが、この昨今である。先行きは厳しいものとなるだろう。

 我が国において、スポーツは感動を意味する「符丁」となっている。そしてスポーツ選手には、他国選手を叩きのめして我が国の栄光を示し観客を感動させるという「符丁」としての振る舞いを社会に要求される。いや、直接の要求はないかもしれない。が、忖度しなければならないものとして、それはある。選手たちは「感動を与えたい」という言葉で「符丁」になることへの宣誓をする。自国開催なら猶更のことだ。ゆえに、少しでも「符丁」としての役割を外れるような行動をしようものなら…なでしこジャパンの片膝つき、大坂なおみのBLMへの支持、女性である場合は特に…容赦なくバッシングの対象にもなる。

 自分が好きだから、とか、ほしいから、とかいうのではなく、世間体と見栄だけで環境をつくる。生活自体が、おのれ自身の生きた現実を土台にしていないのです。この惰性的な、実質を抜いた約束ごと、符丁だけで安心している雰囲気は封建日本の絶望的な形式主義です。(『今日の芸術』岡本太郎・1954年/1999年 光文社文庫)

 イマジン、ボレロ、上を向いて歩こう、月の光。思うに、開閉会式の演出も、何から何まで「符丁」のつなぎ合わせである。岐阜のホテルの一室で海老蔵の『暫』を見たが、僕は「日本を代表する演劇」の「いちばんポピュラーな演目」を「日本を代表するジャズピアニスト」と「異種コラボ」する以上の意味をそこに見いだせなかった。成田屋の睨みには無病息災のご利益が、という人もいたが、それが目的ならば、式の終わり間際で、上原ひろみと併せるという演出にはなるまい。

 国歌を歌うMisiaも「多様性」の「符丁」、最終ランナーの大坂なおみも、糸井重里の言う通り「いろんな国の要素が混じってる」ことの「符丁」、そもそもこの大会が、「復興五輪」だの「コロナに打ち勝った証」だのと名目は変わったものの、つまり石原慎太郎の言っていたように、国威発揚の「符丁」そのものではなかったか。

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 体を動かすこと自体が好きではなかった僕も、人に勧められたこともあり、健康のためにピラティスをはじめた。おとなしそうな運動に見えて、およそ運動らしいことをしてこなかった僕にはなかなかハードである。が、呼吸に集中して体を観察しながら動かしていくとき、なんとなくではあるが、自分のなかに何かしらの空白が生まれるのを確かめることがある。それは、僕が作曲に集中しているとき、あれをしようこれをしようという意図をふっと離れて音符を埋めている時間と少し似ていて、楽しい。いかに今まで、忍耐や根性や優劣の競争といった学校教育の「体育」に毒されていたのかを発見する機会にもなっている。

 もちろん僕のささやかな運動と比べようというのではないが、己の身体そのものに向き合い続けて4年間を過ごす選手たちの想像はできる。その営みは、およそ芸術と同じく、行きつくところは無目的に違いない。下方限定進行音を保留させ装飾を施しつつ下に下げる、という作曲家の営みと、競技選手たちの腿の筋肉の上げ下ろしは、その無目的性において、それほど変わらないはずだ。

 なにか心に邪なものがあるとき、得てして、舞台の上では失敗するのを我々音楽家も経験として知っている。良い演奏をしたときは、30分を5分ぐらいに感じたりするものだ。自分がひとつの無となって音楽がひたすら通り過ぎていく。あれをしようこれをしようという意図がどこかにふっと消えるとき、音楽はもっとも抽象的になり、聴衆は逆に具体的なメッセージを汲み取る。それが音楽の感動というものだが、スポーツもまた、文化の名に値するものならば、そういう瞬間を味わうもののはずだ。ただ走りたい、ただ跳びたいという混じりけのない欲求がなければ、自分を高めていくことなどできまい。

 そうした純粋な欲求をそのままの形では理解できない人々が、苦労話の再現ドラマを添えて「感動」する。そうした「符丁」としての役割を、嬉々としてか渋々とかは人それぞれだと思うが、演じなければならないことの不幸を思う。が、そこで起きていることそのものはとても他人事とは思えない。我々音楽の世界だって、長らく、苦悩から歓喜に至るなどというデコレーションを施された「感動」によって消費され続けているのだから。

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 キプチョゲの瞳からしばらく目が離せなかったのは、何の「符丁」でもない人間を久しぶりに見たような気がしたからかもしれない。ただただ静かに思索を重ねる人の眼に、「気分や情熱の奴隷」となった我が国の狂騒は、果たしてどう映ったのだろうか。

2021年8月4日水曜日

【告知】オペラ『卍』管弦楽版初演 12月8日めぐろパーシモンホール



人を愛することの尊さと愚かしさ、

忠実であり続けることの厳しさと美しさ…

日本発・美しき 谷崎オペラ

2017年に初演され好評を博した室内オペラ「卍」がフル・オーケストラ版になって、2021年12月8日、帰ってきます。人と人との距離が社会的にも肉体的にも離されていくコロナ禍の時代にお届けする、「密」な人間の物語。三浦安浩による新演出です。このオペラの船出を見届けてくださった皆様も、今回が初めてという皆様も、装い新たに生まれ変わった「卍」の世界を、ぜひご覧ください。

チケットの販売は9月1日を予定しています。

「卍プロジェクト」ホームページ内に当公演の特設ページがあります。最新情報および作曲家の新垣隆氏から推薦文をいただきましたので、併せてお読みくだされば幸いです。

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西澤健一:オペラ「卍」 管弦楽版初演

2021年12月8日(水)18:30開演(17:30ロビー開場)

めぐろパーシモンホール 大ホール


指揮:西澤健一 

演出:三浦安浩


光子:新宮由理

園子:津山恵

孝太郎:横山慎吾

綿貫:岡元敦司


原作:谷崎潤一郎『卍(まんじ)』


助演:飯塚奈緒

美術:松生紘子

照明:矢口雅敏

衣裳コーディネート・ヘアメイク:濱野由美子

舞台監督:近藤元

演出助手:根岸幸


文化庁「ARTS for the future!」補助対象事業

主催:卍プロジェクト

後援:目黒区、芦屋市谷崎潤一郎記念館、一般社団法人北海道二期会、国立音楽大学東京同調会

2021年7月11日日曜日

新作紹介 ヴァイオリンとヴィオラの二重奏曲/蔦の門

二重奏にも様々な形態がありますが、管弦と鍵盤、高音と低音といった対比の利く編成と違って、ヴァイオリンとヴィオラの二重奏はどこか文楽人形の扱いを思わせます。ひとりが右腕を動かし、ひとりが左手を動かして、はじめてひとつのキャラクターが成立するような。旋律と伴奏といった単純な形式には依らず、ときには聴き手に胴体や足…架空の低音を想像させるということ。ある種の不自由さに縛られ、演奏者ももちろん大変でしょうが、作曲家にとっても難儀な編成です。そんなヴァイオリンとヴィオラの二本のみという渋いリサイタルシリーズを毎年企画している荒井章乃さんと三浦克之さんのために新作を書きました。


2021年7月15日(木)19:00開演(18:30開場)
横浜市鶴見区民文化センター サルビアホール
一般¥3,000 学生¥2,000 全席自由

ブルーニ/6つの協奏的二重奏曲第4巻より第3番
西澤健一/ヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲(初演)
ヴィラ=ロボス/ヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲
モーツァルト/ヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲変ロ長調 Kv.424



 先日リハーサルにお邪魔しました。宣伝させられています。

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「おんな酒場放浪記」でもお馴染み、ハーモニカの寺澤ひろみさんがYouTubeで僕の作品『蔦の門』の演奏を公開しています。以下、寺澤さんのコメントから引用。

複音は特に、その不自由さ故に作曲家泣かせの楽器ではありますが、今回のこの作品は、西澤さんの素晴らしい感性で、複音の機能性に即した、且つ音楽性・物語性の高い、機能美とも言うべき楽曲になっています。

5年や10年も前に委嘱されていたら泣いたでしょうね。ですが、楽器や編成の「不自由さ」は作曲家にアイデアを授ける大切な友であると今の僕は心得ています。この作品は、重ねたハーモニカの面を、縦、横、ナナメに楽想が這っていくというイメージから『蔦の門』と名付けました。岡本かの子の小説から勝手に借用したタイトルで、それ以上の意識を(正直に言えば)持っていなかったものの、境界剪画の杵淵三朗さんによる舞台装飾の助けもあって、この作品はたしかに植物的な色合いを持っているのだと知りました。

ある意味、共通したテーマを持つ2つの作品。どちらもお楽しみいただければ幸いです。

2021年3月3日水曜日

寺澤ひろみ「アニヴェルゼル」、柴田高明マンドリンリサイタル ほか

 今後のいくつかの予定をご紹介します。

 3月20日「アニヴェルゼル~ハーモニカ・コンサート~」では、「おんな酒場放浪記」でもお馴染みのハーモニカ奏者、寺澤ひろみさんと共演します。この公演には『蔦の門 ハーモニカのための』『クロマチック・ハーモニカとピアノのための小ソナタ』という2つの新作を用意しました。とりわけ『蔦の門』…これは複音ハーモニカ独奏のための作品ですが…は、ちょっぴり誇張が許されるなら、複音ハーモニカという分野のために重要なレパートリーを提供できたと思います。先日、はじめてのリハーサルで、寺澤さんが熱を込めてこの作品を語ってくれたことで、僕も自信が持てました。近くて遠い楽器、ハーモニカの印象が刷新されると思います。

 4月17日「柴田高明マンドリン・リサイタル」には『4つの前奏曲』という新作を提供しました。これは、向こう3年間で計6人の作曲家に委嘱し、毎回古典とともにソロ作品のみでプログラミングするという、たいへん頭の下がる思いのする企画の一環。今回がその第一回目で、僕は露払い役を仰せつかりました。今回は田口和行氏による新作も発表されます。柴田さんとは2012年に『マンドリンと弦楽三重奏のためのコンチェルティーノ』を書いて以来、これが2作品目。僕の楽器の理解度も9年前よりいくらか上がったと思いますが、マンドリンの地位向上に挺身する柴田さんの熱意に応えるべく、頑張りました。

 4月30日「米津真浩・安嶋健太郎ピアノデュオ・リサイタル」では、2018年、仙台ピアノデュオの会のために書き下ろした『祝典ソナタ』が取り上げられます。まだまだ曲に恵まれていない2台ピアノという分野のレパートリーとなるよう願って書いた作品なので、早くも再演されることが素直に嬉しいです。アクの強い(と形容してすまぬ)実力者2人によってこの作品がどのように違う表情を見せるのか、僕も楽しみにしています。

 それから、3月8日「鈴木一成バスーン・リサイタル」…ここでこの演奏会に触れる理由は、まだちょっと大っぴらにはできませんが、ご来場くだされば、きっと分かります。

 それぞれの演奏会の詳細については、下記をご覧ください。

 このつらい現世を少しばかり忘れさせてくれる力が音楽には確かにあります。が、それには作家が現実の世界を呼吸していなければならない。どうして慰めの言葉を知らずして人を慰められましょうか。このような困難な時代においてもなお新作を書けること、旧作が再演されること。それはたいへん恵まれたことに違いありません。その幸福を、僕は僕なりの方法で社会に還元すべく、今後も精進していきたいと思います。

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アニヴェルセル~ハーモニカコンサート
  • 西澤健一/蔦の門 ハーモニカのための(初演)
  • 西澤健一/ハーモニカとピアノのための小ソナタ(初演)ほか
出演:寺澤ひろみ(ハーモニカ)西澤健一(ピアノ)
日時:2021年3月20日(土)15:00開演(14:30開場)
会場:タワーホール船堀 5階大ホール
料金:3,800円 要予約
お問い合わせ:タワーホール船堀 03-5676-2211


柴田高明マンドリンリサイタル〜無伴奏マンドリンの世界vol.1
(公財)青山音楽財団助成公演
《会場入場チケット》一般3000円 学生1500円(共に当日500円増)
4月17日(土)17:00開演 京都・バロックザールでの公演にご入場いただけます。
《動画視聴チケット》1500円

プログラム 
  •  西澤健一(1978-)  4つの前奏曲(新作初演)
  • ・田口和行(1982-) 蒼穹(新作初演)ほか
日時:2021年4月17日(土)17時開演
会場:青山音楽記念館(バロックザール)075-393-0011


米津真浩・安嶋健太郎ピアノデュオ・リサイタル
  • 西澤健一/祝典ソナタ ほか
出演:米津真浩、安嶋健太郎(ピアノ)
日時:2021年4月30日(金)19時開演
会場:ヤマハ銀座コンサートサロン
料金:一般4,000円 会員3,500円 学生3,000円 株式会社ヤマハミュージックリテイリング音楽教室在学生2,500円
お問い合わせ:ヤマハ銀座店 03-3572-3171(代表)


東京音楽コンクール入賞者リサイタル
Kazunari Suzuki Bassoon Recital
出演:鈴木一成(ファゴット)松山玲奈(ピアノ)
日時:2021年3月8日(月)19時開演
会場:東京文化会館小ホール
料金:一般3,500円 学生1,500円 東京文化会館友の会会員3,000円
チケットお申込み:東京文化会館チケットサービス03-5685-0650

2021年2月7日日曜日

『オーバード』の評 Das Orchesterに掲載

 ホフマイスター社から出版されたオーボエ・ダモーレ/ファゴット/イングリッシュ・ホルンのための『オーバード』の評が、ドイツの音楽誌『Das Orchester』に掲載されました。楽譜はオーボエ・ダモーレ版ファゴット版イングリッシュ・ホルン版それぞれ、日本ダブルリード株式会社のオンラインショップでお求めになれます。

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 恋人たちの夜明けの別れ、トルバドゥールの歌。演奏家としてここに留まりたい。流れるようなカンティレーネで、何度も繰り返され、常に軽やかに変化し、美しい響きに包まれ、暖かさと優雅さに満ちている。

 作曲家の西澤健一は1978年東京に生まれる。15歳でピアノを始め、同時に独学で作曲を始める。音楽大学には1年しか在学していない。2013年に初演された交響曲と2017年に初演されたオペラのほかに、主に室内楽、独奏曲、ピアノ伴奏の器楽曲が100曲以上あり、多くの作品で日本の作曲賞を受賞している。

 この『オーバード』はホフマイスター社から出版された。サン=サーンスのオーボエ・ソナタにインスピレーションを得て、最初はオーボエ・ダモーレとピアノのために作られた。更にファゴット、イングリッシュ・ホルンのために編曲され、それぞれ楽器に合わせて嬰ヘ長調、ヘ長調、ニ長調となっている。

 オーバード…朝のセレナーデ…は、作曲者が書いているように、初日の出の燃えるような赤と紫色の空を映している。西澤はこの曲を2018年のニューイヤー・コンサートのために作曲し、自らピアノパートを務めた。

 管のパートは心地よい中間音域を緩やかに漂い、大きなスラーのメロディが印象的なピアノの響きに見事に支えられ、驚くようなハーモニーのなかに注がれ、二つの楽器が互いに溶け合っていく。

 上質な紙を使用し、音符の表記は読みやすく、メロディパートが見開きに収まっているおかげで譜めくりが不要なため、演奏していると楽しさが増してくる。

 作曲者による序文で、彼自身のことをいろいろと知ることができることもありがたい。出版社のサイトではピアノスコアの1ページ目が見られる。

 難易度としては、出版社は中級/上級としているが、これは「ヴィルトゥオーゾではないが要求が多い」と書き換えることができるだろう。

 5分ぎりぎりの長さで、短い瞑想のような印象を与える。瞑想の形式の中で、この作品はダブルリード文学を演じている。コンサートのプログラムの中でメインに加える作品として、または静かなアンコール作品として、あるいは音楽以外の催しで演奏する作品としても大変適している。(評者=アネッタ・ヴィンカー)