2017年1月24日火曜日

演奏家のための和声のはなし(10)時間

 だいぶ前だが、最後の琵琶法師という人の演奏する映像を見たことがある。
 肥後琵琶の、盲目の老人で、本当にそれでなければ生きていけなかった人だ。おそらくは彼の家の、緑がかった昭和色の冷蔵庫の前で、こたつに座り、調弦など無いに等しいぶよぶよとした響きに乗せて唸っていた。ひどく格好良かった。社会保障の整った現代社会の方が盲人にとって暮らし良いに決まっているが、彼らの音楽は世界から失われ、代わりに夢を追う若者がそこに座る今日だ。
 それからしばらくして、ウードで弾き語りをするバーレーンの民謡を聴いた折、それが肥後琵琶の老人の謡と非常に似た印象を受けるものだったので、驚いたことがある。

 アラビア語「ウード」とペルシャ語「バルバット」は同じ楽器を指す。似たような文字を使う両者だけれども、一方はセム語、一方は印欧語なので、丸切り違う言語だ。「ウード」に定冠詞アルをつければ「アル・ウード」。ただし会話中では(フランス語のリエゾンの要領で)「ア」が落ちるので「ルード」となる。これがジブラルタル海峡を渡りリュートになったようである。一方の「バルバット」は東に向かい、琵琶に。北に向かってヴィオラになる。ペルシャ語には定冠詞が無い。

2017年1月23日月曜日

演奏家のための和声のはなし(9)楽器

 作曲家の見ている風景は、次の小節が常に白い。
 演奏家はいつも完成品を見ている。だから、次の小節が常に「ない」という状況を想像するのは難しいかもしれないけれども、そうは言っても無いものは無いのだ。自分が書くまでそれは存在しない。次の小節が無いという点に関し、すべて作曲家は平等である。バッハが見ている白紙と、ガーシュインが見ている白紙と、僕の見ている白紙は、まったく同じものである。

 そこから先に何を書くのかが重大な問題なのは百も承知だが、案外、この「当たり前」は見過ごされがちだ。
 よって、分析者の陥りがちな罠が2つある。
 ひとつは、目先の分析にとらわれること。その場の事象に目がとらわれがちになること。ひとつひとつの文字を取り出し、dは子音、oは母音、gは子音、と考えてしまうこと。作家はそこにdogという単語を書いている。ときにはそれを逆行形にしてgodとも書いている。作家としてはそちらの遊びを楽しんで欲しいわけだが、それには気づくことなく、また新たに、gは子音、oは母音、とTSDの記号を振る。そう足元ばかり見て歩いていては、かえって道に迷ってしまう。
 もうひとつは、作品の出来上がりに感心しすぎてしまうこと。

2017年1月22日日曜日

演奏家のための和声のはなし(8)集合

 20世紀に新しく生み出された理論のひとつに「ピッチクラス・セット」がある。
 作曲家ミルトン・バビットによって提唱され、理論家アレン・フォートが1973年に著した『無調音楽の構造 ピッチクラス・セットの基本的な概念とその考察』(森あかね・訳 音楽之友社2012年)によって体系立てられ、詳しく説明されている。邦訳の森氏はフォートの弟子であり、ハートフォード大・ハート音楽院准教授を勤められている。この本の翻訳時には僕もささやかながら協力させていただいたので、宣伝を兼ね、この理論の入門編という体で、少し遊んでみようと思う。
 
 バビットはトータル・セリエリズムの作家として知られるが、その彼発案の概念であるから、異名同音を等価のものとして扱うことを前提とする。表記の統一を図るために音名ではなく整数を使って音を示す。ドを0として、ド♯/レ♭が1、レが2、以降3、4、と続く。

0
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
C
C♯/D♭
D
D♯/E♭
E
F
F♯/G♭
G
G♯/A♭
A
A♯/B♭
 
 これによって、音程もまた一つの言い方に統一できる。
 「シ♭とレ♭」「ラ♯とド♯」は短3度・長6度だが、「シ♭とド♯」なら増2度・減7度、「ラ♯とレ♭」なら重減4度・重増5度になる。これを「10と1」その差は「3」と表現できるようになる。オクターヴ以上離れた関係もすべて0から11の数字に直す。よって「長10度」であるとか「1オクターヴと完全5度」というような表現をしない。

2017年1月21日土曜日

演奏家のための和声のはなし(7)5度

 ハ調では、「レ」を根音とする和音にII度とドッペルドミナントがある。サブドミナントと説明されるが、長調のII度は短三和音、短調のII度は減三和音。ドッペルドミナントの場合はどちらも場合でも長三和音になる。
 ドッペルドミナントは字義の通りにV度調のV度を意味しており、属七の和音や属九の和音など、V度に積み重ねられる形の和音がそのままの形で使える。現代人にとっても最も馴染み深い「V度調の属九」の和音は、大ヒットした任天堂のテレビゲーム『スーパーマリオブラザーズ』の主題で、「ミミ、ミ、ドミ、|ソ」の最初の小節がそれだ。ハ長調の「ド」と「ミ」をこれで和声付けするのは、なかなか大胆で、面白い使い方だと思う。
 長調のII度はVI度調のIV度とも解釈できる。短調のII度は非常に特殊なものだ。そこに生じる減5度の分断がロマン派以前の音楽を特徴付けていると思われる。「レ」を半音下げ「レ♭」にして使うナポリのII度を、ラモーはIV度の変化した形だと説く。同様に、バスに「ファ」を置く第1転回形は(I度調の)IV度「ファ・ラ・ド」の「ド」が「レ」に持ち上がった形と捉える。よって、第3音「ファ」は重複させる配置が最良であるとの案内が、和声の初学者にはなされている。
 調性音楽では、根音を同じくした和音であっても、II度とドッペルドミナントの根拠はあくまで異なるものではあるのだが、「ド」からの完全5度を並べ、I度とVI度というトニックの5度下はサブドミナントであるということを図式化すると、上の図のようになる。

2017年1月20日金曜日

演奏家のための和声のはなし(6)音の網

 空間の豊かさ、線の自由さが、古典派以降の音楽の醍醐味だ。
 ゆえに、転調の巧妙さや複雑さが課題となったのは以前にも触れたとおり。7音の音階は次第に手狭なものになる。いっそう広い空間を確保するために、5度と3度を核にして12音をくまなく使おうという試みも起こる。12音をくまなく、と言えば、シェーンベルク一門の12音技法を思い浮かべるかもしれないが、それは「いままでの音楽と同じように書くため」のものだったと彼自身も何度も強調している。ロマン派の作曲家たちは彼に先んじて12音を等価のものとして扱っていた。そうした現場の実際に追いつくべく、新しい理論もまた考え出されるようになる。

 左の図をご覧いただきたい。
 理論家フーゴー・リーマン発案による「トーンネッツ」というものだ。決して何かの化学式ではない。この網目模様が(まさに)編み出されるきっかけとなった「ネオ・リーマン理論」については後回しにして、まずはこの中からCの字を探そう。そのCから右に進むとG、D、Aとある。左に進むとF、B♭、E♭がある。横方向には完全5度が並んでいるのだ。
 同様に、右向きの斜め線は長3度、左向きの斜め線は短3度で、規則正しく並べられている。正三角形は長三和音、逆三角形は短三和音になる。試しに「ド-ソ」の線を軸にして三角形を逆向きに(線対称移動)すると「ド・ミ・ソ」が「ド・ミ♭・ソ」になる。「ド」と「ソ」を共通音とした進行だ。

演奏家のための和声のはなし(5)3度

 長調にとっての平行調はVI度調だが、短調のそれはIII度調である。
 調号を同じくする調が平行調だ。ハ長調にとってはイ短調。イ短調にとっては、ハ長調。ソナタ形式では、長調の場合は属調で、短調の場合は平行調で第2主題を提示するのが定石とされる。よって、短調のソナタはIII度調に向かうはずだが、ベートーヴェンのピアノ・ソナタop.31-2はニ短調からV度調のイ短調に進み、ずっと暗いままである。定石とは何なのだろうか。


 『未完成』として有名なシューベルト交響曲第7番(世代のせいか、このナンバリングには未だに違和感が消えてくれない)はロ短調。定石通りに進むのであれば第2主題はニ長調で提示されるはずだが、「シ・レ・ファ♯」で終止したI度の第3音「レ」を軸にしてト長調に進む。ロ短調から見ればVI度調である。平行調であるニ長調の第2主題を聴くためには展開部後の再現部まで待たなければならない。いよいよ定石は定石なのかが疑わしくなってくる。

2017年1月19日木曜日

演奏家のための和声のはなし(4)記号

 「和声を教えてほしいんです」と、酒の席でとある若者から相談を受けた。
 「1や2で習っていたものが、次の学年から4や6になったので意味がわからなくなった」とこぼしていた。これは転回形の話題である。「ドミソとミソドは違うものとして聴こえているでしょう?」と慰めその場をごまかしたが、彼も酒を飲んでいる僕に相談するべきではなかった。
 それらは所詮、ただの記号に過ぎない。それ自体に意味があるわけでもない。「なぜ赤信号は赤である必要があるのか」と質問されても答えようがないのと同じことだが、彼にとってはパリサイ人のパン種のような話に見えるのだろう。いま少し辛抱してもらいたいものと思う。
 芸大では林達也著『新しい和声─理論と聴感覚の統合』(アルテスパブリッシング2015年)に教科書が改められたと聞くが、この影響がどのように顕れるのか、わからない。当時の作曲科学生の例に漏れず「芸大和声」として知られる島岡譲執筆責任『和声 理論と実習』(音楽之友社)を僕は学んだが、ひととおりのことを出来るようになろうという人には、あの3巻本は非常にスマートであると思う。受験の頃にはさんざん呪詛の言葉を吐いたが、そう思う。合理的である。しばしば合理的に過ぎる面もある。残念ながら、音楽を志そうという人が誰しも合理的であるとは限らない。
 そうして、「準固有V度調属9根音省略形体下方変位第2転回形」などという和音を前にして、先の若者のような学生が、毎年、頭を抱えることになる。

2017年1月18日水曜日

演奏家のための和声のはなし(3)禁則

 和声の初学者をうんざりさせるのは、何と言っても禁則の数々だ。
 連続5度・8度の禁止、テノールが短2度、バスが完全4度上行する場合以外の並達1度の禁止。作曲科志望の受験生ならば、そういうものだと諦めて渋々覚えもするが、そういう心の準備のないまま講義を受ける演奏の学生の場合、どうしてそれがいけないのかが説明されないまま、どうにも腑に落ちないまま、ドビュッシー『ベルガマスク組曲』メヌエットの冒頭をさする。

 中田喜直『実用和声学―旋律に美しい和音をつけるために』(音楽之友社)に、ピアノの場合これらを禁則とする意味はない、という旨の記述がある。忌憚なく言えば、少々誤解を招く表現だ。というのも、ピアノの場合、オクターヴや5度を重ねるのは和声というより楽器法に関する話題と言うべきであって、これを連続と言ってしまったら、8×8フィートで演奏するときのチェンバロはすべて連続1度に、ストップ全開のオルガンはすべて連続5度になってしまう。ナンセンスである。ピアノという楽器にはそういう機構がないので、書くよりほかないだけだ。

 そもそも和声の学習は合唱で実施する。どんなに簡単な課題であっても、五線紙の向こう側に20人や30人という男女がいるのを想定しなければならない。ソプラノの声色、アルトの声色、テノールやバスの声色、すべて個性の違う声色があることを注意深く聴かなければならない。その意味で、和声学習の目的は、対位法や管弦楽法の目的と一にしている。

2017年1月17日火曜日

演奏家のための和声のはなし(2)機能

 テナガザルは歌を歌うという。
 ゴリラ、チンパンジー、オランウータン、ボノボとヒトとが含まれるヒト上科のなかで、テナガザルはもっとも古くに分岐した系統だという。その彼らが、雄と雌とが交互に複雑なフレーズを即興的にやりとりしつつ、彼らの社会を円滑に進めている。野生の個体も動物園で生まれた個体も等しく歌を習得するようだ。音程とリズムとが彼らの「言葉」であるわけだが、思えば人間の言葉も、それは音程とリズムとに他ならない。

 長い歴史のなかで人は言葉という道具を洗練させてきた。そもそもはテナガザルのように、その社会におけるその時のコミュニケーションのための道具だったのだろうが、これが文字によって記録されるようになると、今度は文字からも言葉を考えられるようになった。複雑な思考に耐えられるようになった。実際には無かった妄想の世界まで想像して書き残すようになった。「見てきたような嘘をつく」と言うが、作家はそれを生業とする。今日もなお、我々はマンガやアニメやゲームによって非現実を楽しむ。人の社会には非現実の必要が本能的なものとしてある。我々は非現実を歌う。しばしば、それらの非現実に現実が追いつくこともある。
 
 音楽と言葉とを単純に比較することはできないけれども、記録の方法の発明によって複雑化していったという点においては、言葉の歴史とよく似ている。

2017年1月16日月曜日

演奏家のための和声のはなし(1)

 フォン・ユクスキュルが著書『生物から見た世界』(日高敏隆、羽田節子・訳 岩波文庫2005年)に「環世界」という語が出てくる。生物が体験しているのは環境そのものではなく、生物自身が行為と知覚とによって自ら作り上げた「環世界」に依っていると。マダニの例では、酪酸の匂い、動物の皮膚の温度と感触、それに触発されて行われる単純な行動がマダニにとっての環世界のすべてであって、それ以外の環境の膨大な情報や行動の可能性は存在しないも同然であると。
 ヘルマン・ヘッセ『デミアン』(実吉捷郎・訳 岩波文庫1959年)にも蛾の話が出てくる。ある種類の蛾は雌の個体数が極端に少ない。その地域に存在するたった一匹の雌を目指して、何キロと離れた距離を何時間もかけて何匹もの雄が飛んでくる。そのような気の遠くなるような行いが、彼らの生態系の当然のこととして、ある。
 
 型枠大工の父と按摩の母の息子である僕にとって、これらはどこか他人事としては片付けられない響きを持っている。音楽家など家系にひとりもいない。クラシックに結びつく経験を幼年時代に探し求めることができない。にも関わらず、僕は、中学生に上る頃にはストラヴィンスキーチャールズ・アイヴズを探し当てていて、今は音楽家になっている。