2017年11月17日金曜日

オペラ 卍(まんじ)全三幕


◎オペラ 卍(まんじ)全三幕
op.100 Manji - Oper in 3 Akten
原作 谷崎潤一郎
脚本 西澤健一
配役 徳光光子(メゾ・ソプラノ)美しい羅紗問屋の娘
   柿内園子(ソプラノ)孝太郎の妻
   柿内孝太郎(テノール)園子の妻、弁護士
   綿貫栄次郎(バリトン)光子の異性の恋人
作曲年月 2017年8月~10月
演奏時間 100分(30,40,30)
楽器編成 フルート(ピッコロ持ち替え)、オーボエ、クラリネット(バス・クラリネット持ち替え)、ホルン、ヴァイオリン2、ヴィオラ、チェロ、ピアノ
初演 2017年11月・豊洲シビックホール 新宮由理(光子)、津山恵(園子)、横山慎吾(孝太郎)、岡元敦司(綿貫)、薄田真希(フルート)、石井由紀(オーボエ)、木原亜土(クラリネット)、木原英土(ホルン)、三ツ木摩理、佐藤茜(ヴァイオリン)、力久峰子(ヴィオラ)、榊原糸野(チェロ)、米丸咲季子(ピアノ)西澤健一(指揮)

* * *

◎Maestro Interview 西澤健一
 嫉妬という感情をどのように正当化するのか。
 その言い訳の過程の、どうしようもない人間の哀れさ…
 これはおそらく和製「カルメン」になる。そう思っていました。
耽美派の巨匠・谷崎潤一郎の問題作「卍」を題材に、美しい第一回オペラ作品を書き上げた作曲家・西澤健一氏に、そこにこめられた思いを聞きました。

◆オペラを手がけようという思いは、いつ頃からお持ちでしたか?準備もされてきたのでしょうか?

小説を改作してテキストにしたものを声楽作品にするという試みは、2006年の「春は馬車に乗つて(横光利一・原作)」が初めてでした。もっとも、オペラではなく連作歌曲の形式で、僕ではなく畏友、岸田洋一さんの手によるテキストです。このテキストを読んで文楽の舞台を連想した僕は、複数の登場人物やナレーションを義太夫のように一人の歌手に歌わせることにしたのです。今のところ「素浄瑠璃」でしか公演していませんが、ここに演技する人なり人形なりがいたら、もっと伝わるところもあるだろうに、などと考えました。自分がオペラに向かっていることは、その頃から自覚していました。
坂口安吾の短編を編み直したテキストで連作歌曲を書いたり、子ども向けのオペレッタを書いたり、綿貫を演じる岡元君のディナーショーのためにミニ・オペレッタ(むしろショート・コントと言ったほうが良さそうですが)を台本から書き起こしたり。自覚のないところで少しずつ「卍」に向けた準備や実験をしていたように思います。

◆第一回作品では、どのような作品を作りたいと思われましたか?

とりあえず今回に限って言うと、登場人物が全員主役であるというオペラです。光子さんを一応は中心人物に据えていますが、一幕は園子さん、二幕は綿貫、三幕は孝太郎が文字通りの主役として振る舞います。原作は園子さんの一人称で描かれていますけど、それをそのまま舞台で演ったら非常に説明臭いものになるでしょうね。説明を一言聞き逃したら意味がわからなくなるようなオペラは良くありません。あくまで「音楽」を持ち帰っていただきたいからこそ、オペラにするんですから。
それぞれがそれぞれの思惑で動くからこそ物語が編まれるのであって、その逆はあり得ない。物語の筋を逆算して生きているような人間なんかいません。非常に根本的なことですけれども、この根本が、物語の中の人物たちに力を与えるのだと思います。

◆谷崎潤一郎の「卍」をオペラ化しようと思われたのはなぜでしょうか?

かねてからオペラ映えする題材であると思っていたのです。ちゃんと音楽化できさえすれば、これはおそらく和製「カルメン」になる。そう思っていました。もっとも、ホセより先にミカエラがカルメンに熱を上げ、エスカミーリョがナイフの代わりに新聞で三人まとめて殺すことになるんですけど。
谷崎は…正体不明な人です(笑)。あの人は基本的に見てるだけ、聴いてるだけなんです。「わたくし」というものの存在を上手に消して、作家の側から断定することをとにかく避ける。録画録音に徹する人と言いますか、観察の人。晩年、口述筆記で作品を作るようになった頃、わざわざ際どいシーンを口にして女性の助手の顔色を観察していたとか。非常に谷崎的だと思いますが(笑)、それにしても、極端に耳の良い人です。

◆「卍」は何度も映画化されている作品でもありますが、新たなアプローチを考えられましたか?どのような魅力を表現したいと思われたのでしょう?

4本も撮られているんですよね。最も古い64年版(増村保造監督、岸田今日子・若尾文子主演)は比較的原作に忠実だと思いますし、台本を書くにあたって参考にした部分もあります。若尾文子も美しいし。98年版は未見です。ほかの2本(83年版、06年版)について、個人的な感想を申し上げるのは控えておきましょう。
新しいアプローチを取り入れようとは思いませんでした。元々が面白いんですから、余計なことをしたら野暮ったくなるだけです。ただ、台本化にあたり、原作の文章を思い切って省かなければならないのは当然のことで、それに従い内容の抽象化ということは起こるでしょう。僕の考えや目線というものも必然的に含まれることになります。
例えば、園子さんと光子さんの関係、すなわち同性愛ということについて。この作品を決定付けている「設定」かも知れませんが、これ自体が「主題」であるとは僕には思えないんです。ひとつ匙加減を間違えたら、このオペラはポルノにするしかなくなるでしょうね。谷崎の文章はたいへん艶っぽいですが、ポルノではありません。
それよりも、例えば一幕での孝太郎、二幕での綿貫が、嫉妬という私的な感情をどのように正当化するのか。その言い訳の過程において、どうしようもない人間の哀れさが現れる。法律めかした「誓約書」を手にする綿貫は、まったく平凡そのものだという意味において道化です。そんな回りくどいことをせずとも素直になれば済む話だし、いくらか可愛げもありそうなものなのに。だから光ちゃんに嫌われるんですよね(笑)
一方、三幕での園子さんは孝太郎さんよりも自分自身を強く責めています。正当化は硬直化でもあって、光子さんは運命に殉じる覚悟をする。ここに近松の「曽根崎心中」の文句を引用しました。谷崎があまりにあっさり書くので補足せざるを得なかったせいでもありますが…ちょうど「観音」という素材も共通していますしね。

◆関西弁にこだわられたようですね。台本のことばへのこだわりなどお聞かせください。

僕は父方も母方も昔からの東京の人間なので、当然、大阪言葉のネイティブではありません。「こだわり」などと言うカッコ良いものではなく、大阪の方からお叱りを受けないよう必死に勉強したというほうが正しいでしょう(笑)。
大阪の古い世代の芸人さんや噺家さんの録音を何度も聴いたり、声に出して真似してみたり…漫才や落語は好きなので苦にはなりませんでしたが、あとはアクセント辞典とにらめっこして。それでもきっと正しくないアクセントがあるんじゃないかと思います。どうか堪忍していただきたいところです。
ただ、大阪の言葉を勉強していく上で不思議な発見をしました。大阪の言葉は非常に厳格な音程を持っていますね。中国語の四声のような厳格さです。その音程を楽音に翻案していくと、日本的な音程の上にちょうど良い音があるんです。なるほど、だから日本の音楽はあのような発展をしたのか。やはり京阪地域が日本文化の中心にあって、そこから様々なものが派生していったのか。ということが、言葉を観察することでストンと理解できました。東京人である谷崎もまた、関東大震災を機に移住した関西の地で、翻訳中だった「源氏物語」と大阪の女性たちのしゃべくりが耳の中で結びついたことによって「卍」の着想を得ました。図らずも、僕は同じ経験をしたと言えます。…余談ですが、いま僕は、「卍」を書いた谷崎と同じ年齢なんですよ。

◆音楽的には、どのような点に注意、注力されたのでしょうか?4人の登場人物にそれぞれテーマもございますね。

先ほどの話と少し関係しますが、言葉がそれを指向している以上、日本の音程を使うことにも躊躇しませんでした。よく、日本の民謡は五音音階だ、ヨナ抜き音階だなどと言うじゃないですか。でも、それだけでは「ずいずいずっころばし」の「ぬけたらどんどこしょ」の転調が説明できませんよね。音楽学者の小泉文夫(1927~1983)と作曲家の柴田南雄(1916~1996)がそういうところを理論化しているんです。理論化され得るということは、そこから先の展望もあり得るということでもあります。
柴田南雄の方法はフーゴー・リーマン(ドイツの音楽理論家。1849~1919)の方法を応用したものと思われます。リーマンが理論化した転調はワーグナーやブラームスのもので、その延長線上にプロコフィエフがいます(この3人、とても同じ芸風には見えませんが、音楽理論的には似たもの同士なんです)僕自身今まで考えもしませんでしたが、大阪の言葉を観察したことがヒントになって、リーマンの方法と柴田南雄の方法の両方を組み合わせて使うということを思いつきました。
楽譜の上では面倒な転調が頻発することになってしまって、演奏者にはひどく苦労をかけていますが、いかにも複雑なものであるようには聞こえないと思います。光子のテーマ、綿貫のテーマ、柿内夫妻のテーマ、ほかにもいくつか大事な動機がありますが、その扱い方は、ビゼーやヴェルディやプッチーニ、あるいはムソルグスキーやドヴォジャークやヤナーチェクなど、重要なオペラ作家たちの知恵に学びました。

◆制作はスムーズだったのでしょうか?作曲を勧めていく過程でのエピソードなどを教えて下さい。

製作期間は約3ヶ月です。今日の公演は「卍」ではなかった可能性もありました。いくつか候補になる本が別にあったということです。ただ、権利関係のことでそれらの案を断念せざるを得ず、もう間に合わないから諦めようとしたところで、「『卍』だったら何とかなるかも…」と言ってしまったんです。僕もかなり血迷ってますけど、「よし!それで行こう!」などと応じる歌手もどうかしていると思います(笑)。
7月の終わりから台本を書き始め…いや、台本を書く前に地理がわからないから大阪の地図を書いたんですよ(笑)。初稿の台本が8月の頭。一幕の完成が8月の終わり。二幕の完成が9月の終わり、三幕の完成が10月中頃。作曲と稽古は同時進行でした。その稽古の様子を見ながら後続部分のアイデアを思いついたりもしました。稽古前は標準語なのに、終わるとみんな訛るんですよ、正しい京阪式アクセントで。それが妙に嬉しかった。
歌手たちからアイデアをもらうこともありました。「四重唱があったらいいよね」とか。別々の場所で同時に進行しているエピソードを原作から探し、双方を結びつけるキーワードで刺繍をするように脚本を組み立てたり。ラストのお経(法華経・観世音菩薩普門品)も「観音経ってあったよね」という稽古中の新宮さんの一言からの着想です。光子が本物の観音様になって、園子さんの悲しさがいっそう際立つ趣向になりました。

◆初演への期待、お客様へのメッセージなど今のお気持ちをお聞かせください。

泰西の名作は評価が確立されているのみならず、すでに何万と繰り返され上演されていますから、伝統という蓄積もあるものです。が、こちらはすべて一からの出発です。歌手も僕も試行錯誤の中で今日を迎えました。回数を重ねればもっと巧い方法も見つかるかもしれませんし、お見苦しい点、お聞き苦しい点、いろいろあるかと存じますが、それでも今日ご来場下さった皆様、応援くださった皆様に、心からの「おおきに」を申し上げます。わたしたちの言語で語られるオペラの楽しさをほんの少しでもお伝えできれば、これに勝る幸せはありません。(初演時プログラム掲載)

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 ◎ごあいさつ
 谷崎の描いた物語は、根源的であるがゆえに今日的なテーマを持っています。厳しく真面目な芸術作品であると同時に極上のエンターテインメントでもあります。非常にオペラ的な素材であるとかねてより思い続けてきました。私はこの狂おしい恋の物語に十年来恋い焦がれてきたのです。谷崎の残した美しい言葉の数々を音楽化できること、強力な仲間を新たに加え、再び皆さまの前にお披露目することができるのは大変なよろこびです。蛮勇と分かっていても恋をしなければ生きていけない皆さまに…これからする予定の皆さまにも…是非ご覧いただきたく思います。(初演時チラシ掲載)

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 ◎再演に寄せて
 部屋でひとり、この世には実在しない恋人たちの情熱に耳を傾けていた頃、仲間の尽力と聴衆の皆様の声とに支えられ、早くも初演の半年後には再演の日を迎えられることになるだろうとは全く想像しておりませんでした。あまり仕合せとは言えない愛憎を描いた物語の結末と違って、このオペラは大変幸せな出発を頂きましたことを改めて皆様に感謝します。この度の再演にあたり、指揮の佐藤氏、演出の榊原氏という素晴らしい才能の力を得られたのも幸運でした。いっそう滑らかに、つややかに、美しく磨き上げられるだろう「卍」の舞台に、どうぞご期待ください。(再演時チラシ掲載)

2017年8月24日木曜日

谷崎潤一郎原作「卍」オペラ化、11月初演

 この度、谷崎潤一郎の傑作として名高い小説「卍」を、西澤健一・作曲によりオペラ化し、11月17日(金)豊洲シビックホールにて初演いたします。出演は、妖艶な美貌を誇る羅紗問屋の娘、徳光光子役に新宮由理(メゾ・ソプラノ)。光子と禁断の関係に落ちる若妻、柿内園子役に津山恵(ソプラノ)。最終的には光子の誘惑に掠め取られてしまう園子の夫、柿内孝太郎役に横山慎吾(テノール)。この3人を破滅に追いやる光子の異性の愛人、綿貫栄次郎役に岡元敦司(バリトン)。ぜひ皆様にもご来場、ご高評いただきたく、以下のとおりご案内申し上げます。

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人を愛することの尊さと愚かしさ、
忠実であり続けることの厳しさと美しさ…
昭和初期の大阪を舞台に、四人の男女が織りなす人間模様。

原作・谷崎潤一郎 オペラ「卍」全三幕


 ストーリー


 弁護士の夫・孝太郎に不満のある妻・園子は、美術学校で出会った美しい羅紗問屋の娘・光子と禁断の関係に落ちる。しかし光子は、一方で異性の愛人・綿貫と関係を断つことが出来ずにいた。綿貫の嫉妬と策謀に翻弄される二人は狂言心中を図るが、妖艶で奔放な光子は孝太郎をも誘惑する。独占欲と猜疑心に苦しむ夫婦は、やがて光子に身も心も支配されていき――四人の男女が織りなす愛憎と破滅を描いた谷崎世界、オペラ化(全三幕)


 ごあいさつ 西澤健一


 谷崎の描いた物語は、根源的であるがゆえに今日的なテーマを持っています。厳しく真面目な芸術作品であると同時に極上のエンターテインメントでもあります。非常にオペラ的な素材であるとかねてより思い続けてきました。私はこの狂おしい恋の物語に十年来恋い焦がれてきたのです。今回、谷崎の残した美しい言葉の数々を音楽化できること、それを強力な音楽仲間たちとともに、ここにお披露目することができるのは大変なよろこびです。蛮勇と分かっていても恋をしなければ生きていけない皆さまに…これからする予定の皆さまにも…是非ご覧いただきたく思います。

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オペラ「卍」全3幕

作曲・西澤健一
原作・谷崎潤一郎

キャスト
徳光光子・新宮由理
柿内園子・津山恵
柿内考太郎・横山慎吾
綿貫栄次郎・岡元敦司

演奏・室内アンサンブル・ラボ
 薄田真希(フルート)
 石井由紀(オーボエ)
 木原亜土(クラリネット)
 木原英土(ホルン)
 三ツ木摩理(ヴァイオリン)
 佐藤茜(ヴァイオリン)
 力久峰子(ヴィオラ)
 榊原糸野(チェロ)
 米丸咲季子(ピアノ)
指揮・西澤健一

2017年11月17日(金)19時開演
豊洲シビックホール

チケット全自由席
前売り 4500円
当日券 5000円

チケットお申し込み・お問い合わせ
gruppobrillante@yahoo.co.jp
03 6421 1206 (スタジオ・フレッシェ)

※追記(2017/11/01)
演出の原純は一身上の都合により降板しました。



2017年6月23日金曜日

練習しなくてもピアノが上手くなる音楽理論教室

 駅の自動アナウンスに、時おりこんなものを聞きます。

 …まもなく さん っばんせんに きゅうこう みなみくりはし いきのでんしゃが じゅう↓ っりょうへんせいで まいります きいろいせんのうちがわにさがって おまちください まもなく…

 「さん」や「みなみくりはし」や「じゅう」などの取り替えが利くように収録したんでしょうけど、「じゅ→う↑」ではなく「じゅう↓」と、「十」だけを取り出して聴けば正しく発音してしまっているのが災いして、前後がつながっていない例です。

2017年6月11日日曜日

ブルグミュラー・デスマッチ!

  2015年の年末ごろ、ふとした思いつきで編曲し、FacebookやTwitterで楽譜や動画をお披露目していたら数多くのピアノ弾きの皆々様からお問い合わせを頂きました「大人用ブルグミュラー」。この度、『ブルグミュラー・デスマッチ!』と改題して、芸術現代社より出版の運びとなりました。



 ヒトコトで言えば、「もしも、ブルグミュラーが大人用の練習曲として書かれていたら」。要するに、子ども用のピアノ曲を、すでに成熟したピアニストが改めて取り組めるようにした、そういう曲集です。収録曲は以下のとおり。

 ・ひばり(op.100-24)
 ・スティリアの女(op.100-14)
 ・バラード(op.100-15)
 ・貴婦人の乗馬(op.100-25)
 ・タランテラ(op.100-20)

 他にも何曲か編曲しているんですけれども、コンサートのプログラムに組み込みやすい曲集となるように、この5曲を選びました。それに、『アヴェ・マリア(op100-19)』なんかは、無理に技巧的にするのもおかしいですし、あれは編曲不能の美しさですものね。

 模範演奏になっていないかもしれませんが、僕自身が弾いた自編『スティリアの女』をYouTubeにアップしておりますので、どうぞご笑覧ください。


 なお、大人用に続いて演奏しているのは↓コチラ。
 この曲も、『ブルグミュラー・デスマッチ!』の付録として収録しております。余興としてお楽しみください。

 『ブルグミュラー・デスマッチ!』は6月6日より発売中。全国の楽譜店および芸術現代社のウェブサイトからもご購入いただけます。よろしくお願いします。

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 ◎あとがき

 もしも、ブルグミュラーが大人用の練習曲として書かれていたら。
 
 この『ブルグミュラー・デスマッチ!』をひとことで表すと、こうなります。充分に成長したピアニストが演奏会に使っても遜色ないもの、本気にならざるを得ないもの。そういう内容を持つ曲集として仕立てました。
 少なくとも私どもの年代くらいまでは、ピアノのレッスンといえば、まずバイエル。それからブルグミュラーを経由してツェルニーという道すじを辿ったものでした。率直に言って面白くはないバイエルという苦行のあとにやってきたブルグミュラーの、なんと楽しかったこと。『貴婦人の乗馬』が弾けたときの、なんと嬉しかったこと。練習曲とは思えない豊富な楽想に心をときめかせた方も多かったと思います。
 手の大きさという問題がありますから、こども用のピアノ曲には使える音程に「しばり」があります。作曲家は「しばり」があると、かえって何かやってやろうという気になるオトナげない動物です。私自身、こども用のピアノ曲を書いた経験から、ブルグミュラーの気持がちょっぴりわかります。彼の練習曲は練習曲の域を少しはみ出しているのです。私のこの編曲は、その「しばり」の向こう側で彼が感じていただろう音楽のよろこびを、少々誇張して、表現したものに過ぎません。

 演奏会用の小品集とするにおさまりの良い曲として、第24曲『つばめ』、第14曲『スティリアの女』、第15曲『バラード』、第25曲『貴婦人の乗馬』、第20曲『タランテラ』の5つを選びました。(『貴婦人の乗馬』が誤訳であることは広く承知されてきた昨今ではありますが、ここはあえて、私たちのノスタルジーのために、この誤訳を本題とします。)なぜこの順に並べたのかは、楽譜をご覧くださればご理解いただけるでしょう。
 全曲をアレンジすることも一度は考えましたが、第19曲『アヴェ・マリア』のような音楽は、もうそれ以上に足すことも引くこともできない美しさのため、無理やり「技巧的」な作品にするのはためらわれました。

 念のため『ブルグミュラー「25の練習曲 op.100」による5つの演奏会用小品』というマジメなタイトルも付してありますので、時と場合に応じて使い分けていただければ幸いです。また、巻末には付録として『内気な6歳の男の子が最初のレッスンに持ってきた「スティリアの女」』を収録しました。譜読みは面倒ですが、楽譜通りに弾けば弾くほど、かわいそうな子に見えてくる。そういうアレンジです。余興としてお楽しみください。

 この曲集の着想のきっかけを与えてくださったピアニスト・北住淳氏、音楽学・中村真氏、笠寺観音・吉川政春師、およそ楽譜の表紙とは思えない楽しい表紙を描いてくれた緒裡かえる氏、出版に際しご尽力くださった芸術現代社の東さつき氏に感謝申し上げます。

2017年4月25日
西澤健一

2017年4月8日土曜日

楽曲分析で何が明らかになるのか

 これはM先生の受け売りですが、
 バラバラに鳴らした何の脈絡のもない音列を「ファです」「ド♯です」などと答えられる人、いわゆる絶対音感の持ち主が多いのは、幼い頃から教育を受けたアメリカ人、中国人、日本人だとか。
 ヨーロッパ人の場合、絶対音感なるものの傾向はそれほど強くありません。意外に思われがちですが、案外、意外でもなく、ここでは「何の脈絡もない音列」であるというのがミソで、彼らは音と音との関係性を聴きとる傾向にあります。ゆえに、関係が分断されると分かるものも分からなくなる。一方、日米中の音楽家の多くは、どの音も等価なものとして聴いている傾向にあると言えます。
 この事象の理由については、きっと、お詳しい方がいろいろ研究なさっていることと思いますが、ミルトン・バビットのようなトータル・セリー作家に端を発したピッチクラス・セットの考え方がアメリカで浸透していくのは、ある意味では自然なことだったかもしれません。

 ちなみに絶対音感の最たるは小鳥さんたちだそうで、確かにあの子たちはいつも決まったテンポ、正確なピッチで歌っています。僕の住まいの向かいにある小学校のマーチングバンドがモコモコしたヘ長調で『歓喜の歌』を練習してますが、もしも小鳥さんたちが原曲を知っているなら、子どもたちの吹くそれを『歓喜の歌』だと認識できないかもしれません。もっとも、僕も小鳥さんたちとはまったく別の意味で違う曲に聞こえていますけど、けっこう気に入っています。

2017年3月14日火曜日

4音からなる動機の可能性は何通り?

 とある酒の席での話。
 「作曲をしているあなたに言うのも失礼だけど、もう音楽の可能性は出尽くされてしまった。バッハのような天才など二度と現れまい」と、僕の目の前に座った老人が嘆く。僕の曲を聴いてそれを仰ったのなら批判とも皮肉とも受け取れたので、素直に「ごめんなさい」と言うこともできたのですが、僕はただ「作曲家です」と自己紹介をして彼の前に座っただけ。で、これを言われた。
 バッハの後に生まれたモーツァルトもベートーヴェンもショパンもブラームスもみーんな天才とは呼べないということですね。という嫌味は胸にしまいましたけれども、僕はこれを心ひそかに末法思想と呼んでいます。さぞかし現代音楽は濁世を象徴するものと聞こえてらっしゃることでしょうが、紀元前から続く音楽という営みを、もう少し信頼していただきたいところです。

2017年2月28日火曜日

音楽の冗談、の常談(5)IV. Presto

 「交響曲第41番『ジュピター』の最後はケルンの大聖堂のようだ」と、グラズノフは表現した。というくだりが、ソロモン・ヴォルコフ編『ショスタコーヴィチの証言』(水野忠夫・訳 中公文庫1986年)のなかにある。いろいろと問題のある本で、これからの世代が手に取る姿がまったく想像できないけれども、『ジュピター』がケルンの大聖堂とは素晴らしい喩えだ。こうした言葉までひっくるめて読まれなくなってしまうのは、あまりに惜しい。

 今でこそ、誰もがモーツァルトと言うけれども、19世紀の音楽家が今日の様子を見たら、どうしてあんな古いものが、と驚くかもしれない。リムスキー=コルサコフにとって百年前のモーツァルトはそうとう古い作家だった。あのシューマンにとっても、五十年前の音楽はそうとう古く、縁のないものだった。演奏機会も多くなく、グラズノフやワーグナーのようにモーツァルトを熱愛する作家も少なかった。彼らからすれば、二百年以上前の音楽を毎晩のように聴き、百年を超える音楽を「現代音楽」と呼んでいるわたしたちの姿のほうが、よほど滑稽に映るかもしれない。

2017年2月27日月曜日

音楽の冗談、の常談(4)III. Adagio cantabile

 不思議な楽章である。第二楽章までを観察してきたわたしたちの耳からすると、形式的なアンバランス感をこの楽章から感じ取ることはないだろう。緩徐楽章としてちょうど良い規模を持っているし、素材も全て揃っていて、過不足ない。たしかに、ヴァイオリンによるカデンツァはおかしなものであることがただちに理解できるし、そもそも余計な自己主張に見えなくはないにしても、ところどころには普段の彼を窺うことすらできる。しかし、この何ともいえない違和感の正体は何なのだろうか。


 この楽章を聴いて真っ先に耳につくのは一小節目、第一ヴァイオリンの旋律にある「ファ♯」だろう。「ミ」から「ソ」に至る経過音の「ファ」に間違って付けられてしまった臨時記号のせいで「『ド』を主音にした『ファ』の旋法(音階の第四音が半音上がった旋法)」の旋律にも聞こえてしまう。しかし、これを直すのはたやすい。臨時記号を外せば良いだけだ。またも「筆者による訂正案」なるものを示しておいたので参照にされたい。ちなみに、二拍目のすぐにある「ファ♯」は刺繍音として正しいものであるから、このシャープを外してはいけない。

2017年2月26日日曜日

音楽の冗談、の常談(3)II. Menuetto

 この楽章の楽譜を手にすると、優雅な舞曲であるはずのメヌエットに「マエストーソ(堂々と)」などという場違いな指示がなされているのが、目に入る。
 第一楽章で彼が示したような冗談は、もはや主題のなかには見出せなくなっており、冒頭の四小節には理論的な間違いも見当たらない。軽やかに演奏すればメヌエットに聴こえるだろう。ただ、彼の指示どおりに、演奏者が堂々と演奏すればするほど、メヌエットの精神からは加速度的に外れ、救いようのない「狩」の音楽になっていく。そうすればするほど5小節目からのホルンがメヌエットの領域を超える。メヌエットにホルン的なモチーフが登場することは珍しくないが、あんまりだ。
 必要に応じて「本来の創作」も混じるようになる。彼はもう、まったく別の領域に踏み込んでいるのである。

 まず注目したいのは9小節目アウフタクトからの4小節。第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリン、ヴィオラとバスが、それぞれ3度の関係で動きを共有する。これは第一楽章の展開部ではじめて姿を現した「連続する3度を置いただけのもの」だ。しかも、第一楽章よりいっそう無意味に順次進行を連続させている。どうやら彼も、間違った音符に慣れてきたようだ。そのように書かれているものであるから、当然、和声分析を受け付けない。

2017年2月25日土曜日

音楽の冗談、の常談(2)I. Allegro

「当たり前のことが当たり前のように響く」とモーツァルトを形容する人がいる。それだけ自然で、なめらかな音楽だ。ただ、彼を讃える言葉として「当たり前」が妥当と言えるのかどうか、少し立ち止まって考えたい。

 『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』はシンプルなI度からV度の連結から始まるが、冒頭四小節間は思い切ったユニゾンで書かれている。和声は分散され、リズムが付けられ、I度は上行、V度は下行と性格も分けらる。5小節目からの保続音に乗って「ソファファ」「ラソソ」という上声の特徴的な倚音、トリル、ヴィオラの「ラドファラ」という内声、10小節目はI度の一転で、ふわりと終止する。
 一方の『冗談』もシンプルなI度からV度の連結から始まるが、和声の教科書がおっしゃるとおりの定形に配置され、1小節目でI度を3回鳴らし、2小節目でV度を3回鳴らす。わかりやすいと言えばこれ以上にわかりやすい連結はなく、「当たり前」といえばこれ以上に「当たり前」の表現方法はない。
 両者をもう一度比べよう。かたや彫琢されつくした美。かたや、原材料。
 彼はこの頃、すでに、ラモーが道すじを示した機能和声の方法論から遠く飛躍しており、後の時代にワーグナーが突き詰めることになる瞬間移動の術を手にしていた。他ならぬワーグナーその人が、モーツァルトのバトンを受け継ぎ、彼なりの方法でそれを展開させたのだ。あまり印象にはないかもしれないが、すでに時代遅れのものと認識されていた時代にあって、ワーグナーは熱烈にモーツァルトを愛していた。「当たり前」を嫌うあの人が、「当たり前」を愛するだろうか。

2017年2月23日木曜日

音楽の冗談、の常談(1)はじめに

 モーツァルト作曲、『音楽の冗談』Kv.522。
 1789年の完成。ウィーン古典派音楽芸術の王道中の王道、鉄壁の完成度を誇る彼の作品群のなかで、ひときわ珍妙で、頭を抱える一曲だ。あの素晴らしい弦楽五重奏曲や、代表的なオペラである『ドン・ジョヴァンニ』を作る一方で、二年にも渡る試作を重ね、入念に準備をし、彼は冗談を書いていたのだ。作品目録には6月14日の日付で『Ein Musikalischer Spaß』のタイトルを、自らの手で堂々と書き込んでいる。彼を一流の音楽家として育て上げた教師でもある父レオポルトの死から二週間で完成を見たというのも、なかなかにして冗談である。
 ちなみに同年8月には、ほぼ同規模の作品でありながら『音楽の冗談』とは対極にあるような、彼本来の信条である洗練の極致を象徴する、かの有名な『アイネ・クライネ・ナハトムジークKv.525』が作曲されている。

2017年2月22日水曜日

ババのないババ抜きは面白いと思う?

 誰だって一度くらいはババ抜きで遊んだこともあるでしょう。
 きわめてシンプルなゲームですけど、最後の手持ちのババをいかに相手に押し付けるか、というところに、駆け引きの楽しさが生まれます。一度でもこれで遊んだことのある人なら、わざわざ一枚「これを取れ」と出っ張らせた経験だってあるでしょう。ババのほうを出っ張らせる人もいるし、ババじゃないほうを出っ張らせる人もいる。ババじゃないほうを取られそうになったとき、あえて嬉しそうに口をほころばせ、相手を惑わせる性格の悪い人もいます。
 たった一枚ジョーカーを忍ばせておくだけで種々の人間模様が観察できる。それが、こういったゲームの醍醐味であるわけですが、もしもジョーカーの無い状態でババ抜きをしようものなら、ただ黙々と同じ数字のカードを整理整頓するだけ。ゲームではなく作業。手を使って良いサッカー、足を使って良いハンドボール、カバディと言わなくて良いカバディも、面白くは無さそうです。

2017年2月21日火曜日

音楽理論的に正しい料理教室(10)麻婆豆腐


 いままで勉強してきたまとめとして、麻婆豆腐に挑戦しましょう。
 普段なにげなく食べている麻婆豆腐ですが、これはTSDの機能が最大限に拡張された複雑な料理です。各素材の関係と作り方の時間設計は、中心軸システムとフィボナッチ数列が役に立ちます。

2017年2月20日月曜日

音楽理論的に正しい料理教室(9)カレー


 どうしてお正月のカレーって美味しいのでしょう。
 さて、基礎のしっかりしたオーソドックスなインド風のチキンカレーを作ると、それを主題としていくつもの変奏を用意できます。ますはスリランカ風に変奏してみましょう。

2017年2月19日日曜日

音楽理論的に正しい料理教室(8)マヨネーズ


 写真をご覧ください。
 右のココットに入っているものはマヨネーズですが、左のココットに入っている液体は何でしょうか。両方とも、同じ材料を同じ時間だけ混ぜたものであります。卵黄と酢と塩コショウを混ぜてから、最後に油を入れて攪拌させたものが右のマヨネーズ。油と酢と塩コショウを混ぜてから、最後に卵黄を混ぜたものが左。卵黄味のドレッシングになりました。

2017年2月18日土曜日

音楽理論的に正しい料理教室(7)おでん

 自分に厳しく。
 それはなかなか出来ることではないから、立派なことです。
 しかし、ぬるま湯に浸かり続けるからこその境地というものも、世の中にはあります。こたつの中から数ヶ月トイレ以外に出ない男のような境地。料理だと、おでんです。


2017年2月17日金曜日

音楽理論的に正しい料理教室(6)鶏の唐揚げ

 今日はキムチの素の転調的用法について講義したいと思います。
 瓶に入って売られているキムチの素。野菜を漬けたり、キムチ鍋にしたり。で、だいたい皆さん止まっていることでしょう。しかし、そんなふうにI度とV度を行ったり来たりしているだけでは、とうてい、あのひと瓶を使い切れません。いくらキムチ味が好きでも、毎日では飽きてしまいます。

2017年2月16日木曜日

車に乗れないということは

 僕は車に乗れません。
 免許を持ってないんです。取れる気もしません。のみならず、車を運転するという想像がまったくできない。どうやら死ぬまで東京近郊に住むしかなさそうで、それにはちょっとめげてます。あと、運転免許証で買えるタバコの自販機の存在にも、軽くイラっとしてます。
 車に乗れないということは、「交通手段がひとつないということ」にとどまらないんです。およそ車に乗る人なら当たり前のように入ってくる情報がひとつも入ってこない。認識できないんです。最たるものは車種名で、覚えられないのは当然のこととして、車体の像とまったく結びつかない。あれに乗っている、これに乗っている、という言葉の意味するところの社会的な符牒が読解できない。要するに、なにがなにやらさっぱりわかりません。僕のできる車の判別は、大きい、小さい、赤い、黒い、その程度のもの。なので、ひき逃げ事件を起こす予定のある方は僕の前がねらい目です。
 記憶力は決して悪いほうではないと思ってますが、脳のなかの車に関する回路が壊死しているようです。余談ですが、ボウリングの球をまっすぐ投げる回路も見当たりません。

2017年2月15日水曜日

音楽理論的に正しい料理教室(5)おいもの天ぷら


 お昼にさつまいもを天ぷらにする。
 天ぷらをさっくり揚げるコツは、氷水とか粉の溶き方ではないのです。世の中には天ぷら粉というものがあります。頼りなさい。そうやってなんでも一から自分でやろうとするから、天ぷらも人生も上手く行かないのです。って書いてて、自分の胸がすごい痛かった。

2017年2月14日火曜日

音楽理論的に正しい料理教室(4)煮物

 例えば、服のちいさなほつれなんかを「味」と表現する関西の方をよく見かけます。
 この場合の「あじ」は「↓↑」ではなく「↑↑」で、両方ともにテヌートアクセントがついている。生まれも育ちも東京なのに関西に住むようになって、しまいにこれを言うようになると、ついに魂を売り渡したな、という気持ちになります。揚げ物にレモンを絞れば目を押さえたり。「あっちだとやることが多くて…」やらなきゃいいのに。

2017年2月13日月曜日

音楽理論的に正しい料理教室(3)とうがんのスープ

 料理が苦手だと自覚している方のほとんどに共通していることは、味をちゃんとつけようとするところです。味なら素材にすでについています。調味料は、文字通り味を調えるものです。肉なら肉の味にすべきであって、めんつゆ味の肉にしてはいけないのです。
 前回の豚丼の豚はサブドミナントと説明しましたが、ご飯の上ではなく別皿に盛れば、豚はトニックです。豚肉はご飯にとって下属調の関係なんですね。ご飯が主調です。主食とも呼ばれています。あくまでご飯を美味しくたべるための肉。肉とご飯を美味しくたべるための、めんつゆです。このTとSとDの力関係と栄養バランスを習得しましょう。

2017年2月12日日曜日

音楽理論的に正しい料理教室(2)豚丼

 料理が苦手だと自覚している方のほとんどに共通していることは、なにかものすごく手をかけないと料理じゃないという暗示にかかっていることです。でも、ピアノをはじめて1ヶ月の3歳の子がラフマ2番を弾くことはできません。まずは豆腐にめんつゆをかける。これで冷奴という一品である。そういう小さなエチュードの積み重ねを大事にしましょう。

 さて、冷奴をアナリーゼすると、豆腐がトニック、めんつゆがドミナントですね。
 めんつゆで豆腐がさらに美味しくなってトニックに解決。上に乗せるねぎや生姜はサブドミナント。素材自体は変わらないので、このドミナントやサブドミナントのバリエーションが多く持てると、レパートリーも自然と増えてきます。冷奴の場合、III度のドミナント的用法で、めんつゆのかわりに塩をふって熱したごま油を、じゅう、とやっても美味しいですよ。お好きな方はパクチーなどをサブドミナントに使うと、さらに奥行きが出るでしょう。

2017年2月11日土曜日

人間は自分の聴覚を否定する

 しばしば、作曲家はドSです。僕も身に覚えがあります。
 それはどう考えてもしんどい、という音を「きみ、やってごらん」と、ついつい書いてしまうことがあります。わかってないまま書いてはいけないものですが、ちゃんと訓練された作曲家の場合、悪気があるという意味で悪気はないのです。そこで音楽的にどういう化学反応が起きるか、のほうが圧倒的に大事なので、一笑いのために上島竜兵を熱湯風呂に突き落とすようなことは、当然します。

2017年2月10日金曜日

音楽理論的に正しい料理教室(1)大根のサラダ

 とある打ち上げで料理の話になりました。
 僕の料理好きは僕の仲間内ではみんなの知るところ。とある若い女の子が「わたし料理できないんです」と言っておりました。普段は適当にめんつゆばっかり使っているから、今度教えてください、と。しかしめんつゆが一本もあれば、たいていのことは何でもできるのです。それを今日は、彼女に教えてあげたいと思います。
 
 料理をニガテと自覚している人にほぼ共通して言えることは、みんな、頭からちゃんと作ろうとしすぎていることです。楽譜にフォルテが書いてあったら何デシベルで、ピアノなら何デシベルで。そういうふうにレシピを追っちゃう。みなさんそんなふうに弾いてますか。弾かないでしょう。だからここをまずテキトーにすることが大事なのです。
 めんつゆのように単純な調味料は、材料を通るだけで味が変わるので、これをまず体に叩き込みましょう。同じ「ド・ミ・ソ」でも、ハ長調のI度とヘ長調のV度とト長調のIV度とホ短調のVI度とホ長調の準VI度では意味合いも風味も違いますね。レシピをまるまる暗譜するのではなく、素材の質感をソルフェージュできるようなれば、きっと料理が上手くなります。

作曲家が聴いているのは、原油

 作曲家と演奏家の視点は、どうしても違います。
 音楽家の場合なら、視点ではなく「聴点」と言ったほうが良いのでしょうか。すでに出来上がっている楽譜を毎日見ている人と、何も書かれていない五線紙を毎日見ている人とでは、発想が違って当然です。演奏家という人は解釈が上手いなと思います。上手すぎることもあります。プリクラや「SNOW」で撮るように作曲家像を本人の2割増で盛ってくれると、それはそれでこちらとしてはありがたいんですが、あまりにも深く考えすぎて、考えなくても良いことまで考えてしまって先に進めずにいる若い演奏家などを見かけます。そのままで良いのに、と、思うわけです。

2017年2月9日木曜日

お前の仕事はなんや その3

 美大で勉強してきたあなたは、自宅で絵画教室を開いています。
 この2月、近くに住む小学生の男の子が母親に連れられやってきました。お絵かきが好きというこの子は、しかし初めて見る絵描きの部屋にひどく緊張しています。石膏デッサンなんかやらせた日には今にも泣いちゃいそうです。まずは彼の緊張をほぐそうと、あなたは考えました。
 「ワンピース、描こっか」
 あなたは一枚の裏紙に鉛筆でルフィを描きました。みるみる彼の目が驚きに満ちてきました。すると、そこに知らない番号から一本の電話が入りました。
 「どちらさまですか」
 「集英社です。いまあなたルフィ描きましたね。作品使用料をお支払いください」

2017年2月8日水曜日

お前の仕事はなんや その2

 音楽界隈の収まる気配がないですね。
 「この話って家に泥棒が入って来ない様にセキュリティ頼んだら、友達が遊びに来ても阻止された。みたいな話だよね」と、連載のイラストを描いている緒裡君が言っていました。
 上手いことを言うものだと思いました。

 著作権、著作者人格権のような語については、お詳しい方が解説されているので、ここで繰り返すことはしません。それはJASRACを通さなくても「ある」ものです。信託の契約を結び、財産としての著作権をまるごとあちらにお預けすることで、彼らは彼らの根拠を得ています。よって、作曲者本人といえども自分の作品を自由に使うことはできません。これは「おかしい」ではなく、そういうものです。銀行の中にある定期預金と似たようなものと思えば想像しやすいかもしれません。

2017年2月6日月曜日

お前の仕事はなんや その1

 音楽界隈が例の話題で持ちきりですね。
 生徒が先生の前で弾いたり、先生が生徒の前で弾いたりするのが「公衆」に当たるというのは、すごい話です。もののついでにラブホのなかで裸になっている男女も一人残らず公然わいせつでひっ捕らえてくれれば良いと思います。

 さて、かれこれ10年ほど前のはなし。
 僕の曲が某公営FM局で2回流れたことがありました。友人がたまたま放送を聴いていて僕に教えてくれたので、ようやくそれを知ったという。僕も呑気なものです。が、放送使用の分配はけっこう割がよいという風の噂を耳にしていた上に、演奏家個人のぽんぽんが痛まないお金。なんとすばらしいものでしょう。僕は期待に胸を膨らませました。
 ところが。放送から2、3年ほど経ってるらしいのに、明細を見てもまだ入ってきていない様子。僕は代々木に電話して「どうなっているんでしょう」と訊きました。そうしたら、担当者の方が「ずいぶん古い話ですねー」と、とてもしみじみとした声で感心していらっしゃる。

 僕はその電話口で、契約解除の方法についてご案内いただいたわけです。

 というわけで、09年以来、僕はJASRACと契約しておりません。
 それまでだって「著作権」とか「使用料」という言葉でさんざんイヤな思いや申し訳ない思いをしてきたのに。全国放送の使用までいちいち個人のネットワークで調べなきゃいけないなら、何のための信託なんだかわからない。
 とても抱えきれないだけの売れ方をなさっている方には、どうしても必要な制度でしょう。たしかに僕は一日に何万と聴かれるような種類の音楽はやってませんが、好きでやってるので仕方ない。ただ、「公平な分配」などという看板を掲げて商売している組織が、信託会員相手に風呂敷を広げてどうするんですか。

 僕の作品を使う場合について。改めてガイドラインのようなものは設けたいと思いますけれども、せっかくネットという文明の利器もあって、僕もまだなんとか生きているわけですから、直接やりとりしましょう。頂いたものをタバコにして燃やすかもしれませんが、古賀政男記念館のトイレットペーパーになって水に流れることはありません。皆様からの元気を少しずつわけていただければ、なんとかオラは生きていけますので、ご協力のほどよろしくお願いします。
 
 僕の曲を弾くつもりはない、聴くつもりもない、そもそも誰だか知らないという方も、この記事をご覧になって「でもがんばれよな」と思ってくださるようでしたら、このブログの広告をクリックすれば僕の手元に数円入ってきます。それで充分です。御恩は来世に2円分くらいお返しさせていただきます。それと、件の電話のこちら側で僕がどういう顔をしていたか。浜ちゃんが演じてくれていますので、これもあわせてご覧ください。

2017年1月24日火曜日

演奏家のための和声のはなし(10)時間

 だいぶ前だが、最後の琵琶法師という人の演奏する映像を見たことがある。
 肥後琵琶の、盲目の老人で、本当にそれでなければ生きていけなかった人だ。おそらくは彼の家の、緑がかった昭和色の冷蔵庫の前で、こたつに座り、調弦など無いに等しいぶよぶよとした響きに乗せて唸っていた。ひどく格好良かった。社会保障の整った現代社会の方が盲人にとって暮らし良いに決まっているが、彼らの音楽は世界から失われ、代わりに夢を追う若者がそこに座る今日だ。
 それからしばらくして、ウードで弾き語りをするバーレーンの民謡を聴いた折、それが肥後琵琶の老人の謡と非常に似た印象を受けるものだったので、驚いたことがある。

 アラビア語「ウード」とペルシャ語「バルバット」は同じ楽器を指す。似たような文字を使う両者だけれども、一方はセム語、一方は印欧語なので、丸切り違う言語だ。「ウード」に定冠詞アルをつければ「アル・ウード」。ただし会話中では(フランス語のリエゾンの要領で)「ア」が落ちるので「ルード」となる。これがジブラルタル海峡を渡りリュートになったようである。一方の「バルバット」は東に向かい、琵琶に。北に向かってヴィオラになる。ペルシャ語には定冠詞が無い。

2017年1月23日月曜日

演奏家のための和声のはなし(9)楽器

 作曲家の見ている風景は、次の小節が常に白い。
 演奏家はいつも完成品を見ている。だから、次の小節が常に「ない」という状況を想像するのは難しいかもしれないけれども、そうは言っても無いものは無いのだ。自分が書くまでそれは存在しない。次の小節が無いという点に関し、すべて作曲家は平等である。バッハが見ている白紙と、ガーシュインが見ている白紙と、僕の見ている白紙は、まったく同じものである。

 そこから先に何を書くのかが重大な問題なのは百も承知だが、案外、この「当たり前」は見過ごされがちだ。
 よって、分析者の陥りがちな罠が2つある。
 ひとつは、目先の分析にとらわれること。その場の事象に目がとらわれがちになること。ひとつひとつの文字を取り出し、dは子音、oは母音、gは子音、と考えてしまうこと。作家はそこにdogという単語を書いている。ときにはそれを逆行形にしてgodとも書いている。作家としてはそちらの遊びを楽しんで欲しいわけだが、それには気づくことなく、また新たに、gは子音、oは母音、とTSDの記号を振る。そう足元ばかり見て歩いていては、かえって道に迷ってしまう。
 もうひとつは、作品の出来上がりに感心しすぎてしまうこと。

2017年1月22日日曜日

演奏家のための和声のはなし(8)集合

 20世紀に新しく生み出された理論のひとつに「ピッチクラス・セット」がある。
 作曲家ミルトン・バビットによって提唱され、理論家アレン・フォートが1973年に著した『無調音楽の構造 ピッチクラス・セットの基本的な概念とその考察』(森あかね・訳 音楽之友社2012年)によって体系立てられ、詳しく説明されている。邦訳の森氏はフォートの弟子であり、ハートフォード大・ハート音楽院准教授を勤められている。この本の翻訳時には僕もささやかながら協力させていただいたので、宣伝を兼ね、この理論の入門編という体で、少し遊んでみようと思う。
 
 バビットはトータル・セリエリズムの作家として知られるが、その彼発案の概念であるから、異名同音を等価のものとして扱うことを前提とする。表記の統一を図るために音名ではなく整数を使って音を示す。ドを0として、ド♯/レ♭が1、レが2、以降3、4、と続く。

0
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
C
C♯/D♭
D
D♯/E♭
E
F
F♯/G♭
G
G♯/A♭
A
A♯/B♭
 
 これによって、音程もまた一つの言い方に統一できる。
 「シ♭とレ♭」「ラ♯とド♯」は短3度・長6度だが、「シ♭とド♯」なら増2度・減7度、「ラ♯とレ♭」なら重減4度・重増5度になる。これを「10と1」その差は「3」と表現できるようになる。オクターヴ以上離れた関係もすべて0から11の数字に直す。よって「長10度」であるとか「1オクターヴと完全5度」というような表現をしない。

2017年1月21日土曜日

演奏家のための和声のはなし(7)5度

 ハ調では、「レ」を根音とする和音にII度とドッペルドミナントがある。サブドミナントと説明されるが、長調のII度は短三和音、短調のII度は減三和音。ドッペルドミナントの場合はどちらも場合でも長三和音になる。
 ドッペルドミナントは字義の通りにV度調のV度を意味しており、属七の和音や属九の和音など、V度に積み重ねられる形の和音がそのままの形で使える。現代人にとっても最も馴染み深い「V度調の属九」の和音は、大ヒットした任天堂のテレビゲーム『スーパーマリオブラザーズ』の主題で、「ミミ、ミ、ドミ、|ソ」の最初の小節がそれだ。ハ長調の「ド」と「ミ」をこれで和声付けするのは、なかなか大胆で、面白い使い方だと思う。
 長調のII度はVI度調のIV度とも解釈できる。短調のII度は非常に特殊なものだ。そこに生じる減5度の分断がロマン派以前の音楽を特徴付けていると思われる。「レ」を半音下げ「レ♭」にして使うナポリのII度を、ラモーはIV度の変化した形だと説く。同様に、バスに「ファ」を置く第1転回形は(I度調の)IV度「ファ・ラ・ド」の「ド」が「レ」に持ち上がった形と捉える。よって、第3音「ファ」は重複させる配置が最良であるとの案内が、和声の初学者にはなされている。
 調性音楽では、根音を同じくした和音であっても、II度とドッペルドミナントの根拠はあくまで異なるものではあるのだが、「ド」からの完全5度を並べ、I度とVI度というトニックの5度下はサブドミナントであるということを図式化すると、上の図のようになる。

2017年1月20日金曜日

演奏家のための和声のはなし(6)音の網

 空間の豊かさ、線の自由さが、古典派以降の音楽の醍醐味だ。
 ゆえに、転調の巧妙さや複雑さが課題となったのは以前にも触れたとおり。7音の音階は次第に手狭なものになる。いっそう広い空間を確保するために、5度と3度を核にして12音をくまなく使おうという試みも起こる。12音をくまなく、と言えば、シェーンベルク一門の12音技法を思い浮かべるかもしれないが、それは「いままでの音楽と同じように書くため」のものだったと彼自身も何度も強調している。ロマン派の作曲家たちは彼に先んじて12音を等価のものとして扱っていた。そうした現場の実際に追いつくべく、新しい理論もまた考え出されるようになる。

 左の図をご覧いただきたい。
 理論家フーゴー・リーマン発案による「トーンネッツ」というものだ。決して何かの化学式ではない。この網目模様が(まさに)編み出されるきっかけとなった「ネオ・リーマン理論」については後回しにして、まずはこの中からCの字を探そう。そのCから右に進むとG、D、Aとある。左に進むとF、B♭、E♭がある。横方向には完全5度が並んでいるのだ。
 同様に、右向きの斜め線は長3度、左向きの斜め線は短3度で、規則正しく並べられている。正三角形は長三和音、逆三角形は短三和音になる。試しに「ド-ソ」の線を軸にして三角形を逆向きに(線対称移動)すると「ド・ミ・ソ」が「ド・ミ♭・ソ」になる。「ド」と「ソ」を共通音とした進行だ。

演奏家のための和声のはなし(5)3度

 長調にとっての平行調はVI度調だが、短調のそれはIII度調である。
 調号を同じくする調が平行調だ。ハ長調にとってはイ短調。イ短調にとっては、ハ長調。ソナタ形式では、長調の場合は属調で、短調の場合は平行調で第2主題を提示するのが定石とされる。よって、短調のソナタはIII度調に向かうはずだが、ベートーヴェンのピアノ・ソナタop.31-2はニ短調からV度調のイ短調に進み、ずっと暗いままである。定石とは何なのだろうか。


 『未完成』として有名なシューベルト交響曲第7番(世代のせいか、このナンバリングには未だに違和感が消えてくれない)はロ短調。定石通りに進むのであれば第2主題はニ長調で提示されるはずだが、「シ・レ・ファ♯」で終止したI度の第3音「レ」を軸にしてト長調に進む。ロ短調から見ればVI度調である。平行調であるニ長調の第2主題を聴くためには展開部後の再現部まで待たなければならない。いよいよ定石は定石なのかが疑わしくなってくる。

2017年1月19日木曜日

演奏家のための和声のはなし(4)記号

 「和声を教えてほしいんです」と、酒の席でとある若者から相談を受けた。
 「1や2で習っていたものが、次の学年から4や6になったので意味がわからなくなった」とこぼしていた。これは転回形の話題である。「ドミソとミソドは違うものとして聴こえているでしょう?」と慰めその場をごまかしたが、彼も酒を飲んでいる僕に相談するべきではなかった。
 それらは所詮、ただの記号に過ぎない。それ自体に意味があるわけでもない。「なぜ赤信号は赤である必要があるのか」と質問されても答えようがないのと同じことだが、彼にとってはパリサイ人のパン種のような話に見えるのだろう。いま少し辛抱してもらいたいものと思う。
 芸大では林達也著『新しい和声─理論と聴感覚の統合』(アルテスパブリッシング2015年)に教科書が改められたと聞くが、この影響がどのように顕れるのか、わからない。当時の作曲科学生の例に漏れず「芸大和声」として知られる島岡譲執筆責任『和声 理論と実習』(音楽之友社)を僕は学んだが、ひととおりのことを出来るようになろうという人には、あの3巻本は非常にスマートであると思う。受験の頃にはさんざん呪詛の言葉を吐いたが、そう思う。合理的である。しばしば合理的に過ぎる面もある。残念ながら、音楽を志そうという人が誰しも合理的であるとは限らない。
 そうして、「準固有V度調属9根音省略形体下方変位第2転回形」などという和音を前にして、先の若者のような学生が、毎年、頭を抱えることになる。

2017年1月18日水曜日

演奏家のための和声のはなし(3)禁則

 和声の初学者をうんざりさせるのは、何と言っても禁則の数々だ。
 連続5度・8度の禁止、テノールが短2度、バスが完全4度上行する場合以外の並達1度の禁止。作曲科志望の受験生ならば、そういうものだと諦めて渋々覚えもするが、そういう心の準備のないまま講義を受ける演奏の学生の場合、どうしてそれがいけないのかが説明されないまま、どうにも腑に落ちないまま、ドビュッシー『ベルガマスク組曲』メヌエットの冒頭をさする。

 中田喜直『実用和声学―旋律に美しい和音をつけるために』(音楽之友社)に、ピアノの場合これらを禁則とする意味はない、という旨の記述がある。忌憚なく言えば、少々誤解を招く表現だ。というのも、ピアノの場合、オクターヴや5度を重ねるのは和声というより楽器法に関する話題と言うべきであって、これを連続と言ってしまったら、8×8フィートで演奏するときのチェンバロはすべて連続1度に、ストップ全開のオルガンはすべて連続5度になってしまう。ナンセンスである。ピアノという楽器にはそういう機構がないので、書くよりほかないだけだ。

 そもそも和声の学習は合唱で実施する。どんなに簡単な課題であっても、五線紙の向こう側に20人や30人という男女がいるのを想定しなければならない。ソプラノの声色、アルトの声色、テノールやバスの声色、すべて個性の違う声色があることを注意深く聴かなければならない。その意味で、和声学習の目的は、対位法や管弦楽法の目的と一にしている。

2017年1月17日火曜日

演奏家のための和声のはなし(2)機能

 テナガザルは歌を歌うという。
 ゴリラ、チンパンジー、オランウータン、ボノボとヒトとが含まれるヒト上科のなかで、テナガザルはもっとも古くに分岐した系統だという。その彼らが、雄と雌とが交互に複雑なフレーズを即興的にやりとりしつつ、彼らの社会を円滑に進めている。野生の個体も動物園で生まれた個体も等しく歌を習得するようだ。音程とリズムとが彼らの「言葉」であるわけだが、思えば人間の言葉も、それは音程とリズムとに他ならない。

 長い歴史のなかで人は言葉という道具を洗練させてきた。そもそもはテナガザルのように、その社会におけるその時のコミュニケーションのための道具だったのだろうが、これが文字によって記録されるようになると、今度は文字からも言葉を考えられるようになった。複雑な思考に耐えられるようになった。実際には無かった妄想の世界まで想像して書き残すようになった。「見てきたような嘘をつく」と言うが、作家はそれを生業とする。今日もなお、我々はマンガやアニメやゲームによって非現実を楽しむ。人の社会には非現実の必要が本能的なものとしてある。我々は非現実を歌う。しばしば、それらの非現実に現実が追いつくこともある。
 
 音楽と言葉とを単純に比較することはできないけれども、記録の方法の発明によって複雑化していったという点においては、言葉の歴史とよく似ている。

2017年1月16日月曜日

演奏家のための和声のはなし(1)

 フォン・ユクスキュルが著書『生物から見た世界』(日高敏隆、羽田節子・訳 岩波文庫2005年)に「環世界」という語が出てくる。生物が体験しているのは環境そのものではなく、生物自身が行為と知覚とによって自ら作り上げた「環世界」に依っていると。マダニの例では、酪酸の匂い、動物の皮膚の温度と感触、それに触発されて行われる単純な行動がマダニにとっての環世界のすべてであって、それ以外の環境の膨大な情報や行動の可能性は存在しないも同然であると。
 ヘルマン・ヘッセ『デミアン』(実吉捷郎・訳 岩波文庫1959年)にも蛾の話が出てくる。ある種類の蛾は雌の個体数が極端に少ない。その地域に存在するたった一匹の雌を目指して、何キロと離れた距離を何時間もかけて何匹もの雄が飛んでくる。そのような気の遠くなるような行いが、彼らの生態系の当然のこととして、ある。
 
 型枠大工の父と按摩の母の息子である僕にとって、これらはどこか他人事としては片付けられない響きを持っている。音楽家など家系にひとりもいない。クラシックに結びつく経験を幼年時代に探し求めることができない。にも関わらず、僕は、中学生に上る頃にはストラヴィンスキーチャールズ・アイヴズを探し当てていて、今は音楽家になっている。