2013年4月20日土曜日

花房晴美室内楽シリーズ第6集<フランクの夜会>


 「あのへんの時代の音楽というものは、私はドラッグカルチャーみたいなものだと思っているんです」
 僕がたまたま座った席の斜め前にたまたま座った音楽評論家の谷戸基岩さんと喋っていて、彼はこのように言っていた。「尋常じゃない状態を良しとするのだから、本来、良い音楽になるはずがなくて。でも真面目に書いていた人たちは結局埋もれましたよね。」ちなみに昨日のプログラムノートは彼の執筆。「本当は私は(前回の)サン=サーンスのほうを、むしろ書きたかったんですが」と笑っていた。
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 ちょっとした縁があり、僕は花房さんのこのシリーズのために、いつもアンコールを編曲している。今回は「ミサ」のなかの一曲「天使のパン」をピアノ三重奏にした。
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 ところで、ピアノ三重奏を「作品1」として創作の幕を開ける作曲家といえば、なんといってもベートーヴェンである。野心に満ちあふれていて、ツンツンととんがった3曲つづりのセットである。フランクもまた、3曲のピアノ三重奏を「作品1」にして創作の幕を開ける。野心家の顰みに倣うのは野心家である証拠。どうやらピアノ三重奏というのは伝統的にそういう編成であるらしい。僕にもちょっぴり心当たりがある。
 実演を昨夜はじめて聴いた。相当、とんがっていた。
 fis mollのアンダンテで始めるという選択からして、とんがっている。オレ様はそこいらの馬の骨とは格が違うんだ、と言いたげな細かいアイデアで埋め尽くされていて、ついにFis Durになる最終楽章も、すぐにもホロホロと崩れてしまいそうな調なのに、問答無用でギリギリとネジが巻かれる。ピアノに乗った自分が空高く飛ぶためには、ヴァイオリンとチェロの弦を切る寸前まで強く張る必要があったのだろう。いいから黙ってオレ様を支えておれ。ということである。
 飛ぶ、というキーワードが出たところで、ドラッグという主題がここに循環するわけですが、彼のなかでの循環主題とは、作品を器用にまとめるためのものではなく、自分が飛んでも音楽が崩壊しないための最後の担保であって、行けるところまで行ってしまいたい自分を躊躇無く解き放つためのひとつのドラッグだったのだろう。ということが、昨日の演奏でよくわかった。金属のような輝きにまでギリギリと弦を張った徳永、藤原ご両人の頭上で、花房さんは存分に空高く飛んでいた。
 フランクの本当の姿をあばいた一晩だった。 (於・東京文化会館小ホール)