2013年12月7日土曜日

「ふつう」

 1ページ目は参考書のように色を使い分け、きれいにペンで書かれている。
 2ページ目は早くも黒一色になり、3ページ目にはペンが鉛筆になり、文が単語になり、落書きされるようになり、6ページ目には真っ白になる。僕の中学生のころのノートは、だいたいそのようなものだった。一度も一冊を使い切ったためしがないのだ。高校生になったら改善されるどころか、もう最初から最後まで真っ白で、たまにやってくるノートの提出は最後までしらばっくれた。授業は寝て過ごしたか、ずっと窓の外を見ていたか、教科書の先のほうをひとりで読んでいた。成績は良いほうだったが、学年で一番というほどではなかった。期末テストはだいたい10分前後で終わらせて、残りの時間は机に突っ伏して、後ろのHに答案を見せるような体勢で、寝た。見直しはしなかった。かわいそうに、彼は僕と同じミスをして、カンニングが先生にバレた。
   * * *
 宿題をした記憶がほとんどない。
 小学生時代。夏休みの工作に市販のジグソーパズルをそのまま提出したことがあった。登校日には計算ドリルの答えが配られる。その答えを書き写すことさえせず、提出しなかった。自由研究は6年の一回だけ。ただしこのときは大きな模造紙5枚ほどに、小さな文字を呆れるほど詰め込んだ。それまで一回もやらなかった。「宿題を持ってくるのを忘れました。明日持ってきます」を1ヶ月言い続ければ、そのうち先生も言わなくなることを僕は知っていた。読書感想文を書かなかったどころか、読書をしなかった。
 母に宿題をしろと言われるのがあまりにも嫌で、2時間ほど「家出」をしたこともあった。4年のころ、あまりにも忘れ物がひどいので、先生が両親宛のメモ書きを僕に渡した。そのメモ書きをじっと見ていた僕は、余白部分が気になり、文字を残してはさみで切り取って、父に怒られた。
  入学したての頃まで、僕は裏声以外の声の出し方を知らなかった。中学になる直前までおねしょに悩まされた。「林間学校」を拒絶した。恐る恐る参加した修学旅行で朝、さらさらとした布団をさすったときの安堵といったら、ない。はじめて読んだ漫画は大学に入ってからのうすた京介。保育園のころは漢和辞典を毎日ひろげて、薔薇やら葡萄やら鬱とやらを自慢気に書いては周りの園児の顰蹙を買い、小学の漢字のプリントを旧字体で埋めるようなことをした。少しは漫画を読んだらどうだと、親に雑誌を買い与えられもしたが、かたくなに読まなかった。
 「津軽海峡冬景色」をコブシをきかせて教室で歌ってみたり、男が化粧をしないのがどうしても不思議で母の口紅を塗って学校に行ってみたり、国語の時間の朗読で、物語のキャラクターの声色をすべて演じ分けたりした。そんな6歳。クラス中に笑われたが、僕は、自分はとても「ふつう」な子供だと思っていた。
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 さすがに今は、「ふつう」に、僕は変な子供だったと自分でも思う。
   * * *
 アイヴズを聴いて作曲家になりたいなどと突然言い出した15歳は、ヘ音記号のどこが「ド」なのかすら知らなかった。頼むからピアノを習わせてくれと親にせがんで通い始めた先生に、頼むから音大に行きたいなんて言わないでくれと言われ、カチンときて、ドビュッシーの「月の光」やら、クラス合唱の大地讃頌やら、コンコード・ソナタやらを弾きたがり、哀れな「こどものバイエル」は放られて、レッスンは1年で辞めて、せっかく入れた音大でも和声の宿題は当然やらず、レッスンをさぼり、学長宛に抗議声明なんかを書きつけて送り、1年半で辞めて、賞が取れるようになったころの作風も1年たたずに放り投げ、いろいろと気に食わないことがあったから某団体も辞めて、食えなかったころに入ったバイトも、会社も、それぞれ2年で辞めて。
 さよならだけが人生の35年間。僕は「ふつう」に振舞ってきたつもりだったが、まったく「ふつう」になれなかった。ほとほと、自分の扱いに困り果ててきた。
   * * *
  自分らしく、などと、気軽に言うなと。僕はいつもこの言葉に腹が立っていた。僕の中のなにかの「虫」が、いつも自分の足を引っ張ってきた。正直になればなるほど、この虫がざわざわと蠢く。そうして気がつくと退学届や脱会届や辞表や絶縁状を叩きつけていて、そのときにはすっきりする。気持ちが晴れ晴れとする。空高く、心地の良い風が吹く。やってやったと思う。あとで困ったことになる。僕の場合、自分が自分であることが、忍耐の筆頭だった。人の顔を見ていると鼻をつまみたくなるような性格の僕が社会的に生活するためには、自分らしくしてはならなかった。
 会社を辞めるぐらいならば、次を探せば良い。困ると言っても生活に困るくらいだ。そんなことには慣れている。しかしこれが人間関係ともなると、次は探せない。だから僕は人とのつきあいに細心の注意を払って、気を遣ってきた。これでも気を遣ってきたのだが、結局、人様から見て全く遣えておらず、そうして自分と世間とのあいだに生じる軋轢が、正直、きつかった。相手が限界に達するか僕が暴発するかのいずれかで断絶を迎える関係がいくつもあった。
 僕は人の邪魔になりたくなかった。できるだけ役に立つ人間でありたかった。しかし、生きている以上、どうしても人の邪魔をしてしまうし、思うように役に立てないこともある。そうして僕がねちねちと自分を責めるとき、実は相手のことも同じ力で同じように責めていることになっているらしいことに気付いたのは、つい最近。子供のころから恋い焦がれてきた「ふつう」の人生は、遠い。
   * * *
 宮使えの御奉公をしていた頃の同僚の女の子がシンガーソングライターの活動をはじめて、彼女のライヴを見に行った。いろいろと実際的なアドバイスをしたい部分もあったけれども、それより何より、輝いていて、まっすぐに夢を語っていて、まぶしかった。彼女の声を聴いて、一冊のノートも使い切れないような僕が、楽譜であれば一応最後まで書き切れることに、改めて思い至った。寝ることにすら飽きてしまう僕は、まだ、音楽に飽きていない。これは希望だ。
   * * *
 来年は3回目の年男。人生80年だとしたら、そろそろ折り返し地点。
 というよりも、よくまだ死んでないな、という想いの方が強いのだが。気を遣っても遣えてないなら、最初から気を遣わなければ良いのではないかと思った。少なくとも僕が暴発することは避けられる。だからこの先、僕はどんな場所でも自分らしく振る舞うことにしようと思う。人に迷惑をかけても平然としていられるようになろうと思う。僕にとってもっとも「ふつう」な生活をしようと思う。
   * * *
 ありがとうございます。
 ごめんなさい。
   * * *
 その場合、僕は礼と謝罪を「ふつう」に忘れる可能性があるので、今後皆さんに対してしでかすかもしれない迷惑に対し、前もってこの2つの言葉を心から伝えておく。だから、「あいつは礼すら言えないやつだ」「謝りもしない失礼なやつだ」という批判には一切耳を貸さないことを、免責として宣言しておく。

2013年11月13日水曜日

混淆と洗練、ミヨーと中南米

 ミヨーは難しい作曲家であるらしい。

 ふたつ以上の調性を同時に鳴らす書法を多調性・複調性などと言い、今日、ミヨーを思い出す際には必ずセットで語られる言葉である。なぜなら、彼はこの小難しそうな技法の開祖と言われているから。難しそうなのは技法だけではなく、例えば今日のオーボエのためのソナチネは、文字通りに、演奏が不可能なほどに難しい。無理を承知で無理を書いたような楽譜に奏者は必死の思いで立ち向かう。なのに、出てくる音楽がちっとも難しそうに聞こえてくれない。深刻そうな曲なら苦悶の表情を抑えずに済むのに、ぐっと堪えてそれを隠さなければならない。見かけによらず、なかなかの煉獄なのである。

 近代フランスの斬新な和声が、中南米のリズムと混淆するミヨー。

 調性だけでなく、彼は何でも混ぜてしまう。そうして、もっともげなことを考えていそうな顔をチラリとすら見せることもなく、重そうな体と不自由をした足で、いつでも浮き足立っている。

 観光案内のようにリオデジャネイロ市内の町・地域の名を各曲に冠した「ブラジルの郷愁」にも、シンコペーションの楽しげな2拍子、4拍子の曲が揃っている。これらのリズムはブラジルに限定的なものというよりも、むしろ”汎中南米”的と言えるもので、具体的にはハバネラ、またはミロンガなどと呼ばれている。ハバネラは「ハバナ風」の名の通りキューバで生まれ育った音楽で、アルゼンチンではタンゴの原型となったものだが、しかし実は古いフランスの舞曲を先祖に持っている。ビゼーやサン=サーンスがこのリズムとタイトルとで書いた魅惑的な音楽を僕たちは忘れられないが、これはつまり逆輸入であると言える。ミヨーの場合も、この伝統に重ね合わせて見ることができるだろう。

 ピアノのための舞踏組曲として編まれた「リベルタドーラ」の原曲、歌劇「ポリヴァール」も、ミヨーの「中南米三部作」と呼ばれているものだ。だが、あまりに中南米そのものをキーワードに据えすぎると、彼の大事なメッセージを見誤ってしまう。トルコ色に染められた「後宮からの誘拐」の作者モーツァルトも、トルコ人ではないし、トルコのことだけを書きたかったわけではない。

 そもそも中南米の音楽は、植民地時代に輸入されたヨーロッパの音楽と、元々の住人たちの音楽と、アフリカ系の黒人たちの音楽と、様々な音楽が混淆し、長い時間を経て独自に発展、洗練されていったものだ。良いものはなんでも取り込んでしまおうという人々のおおらかさ、屈託のなさは、ミヨーの気に入ったに違いない。冒頭の多調も彼の発明なのではなく、バッハの楽譜のなかに二つの調が同時にあるのを彼が発見したからで、なれば、開祖はバッハである。新しい高価な絵の具を買った画家のような好奇心に沸き立つミヨーが、想像できる。

 混淆とは二者の対立ではない。さりとて協力でもない。ある日は真面目なことを言い、ある日は酒場で下卑た話をする。ある日は悪いことをして、ある日は教会で真摯に懺悔する。それを普通は性格の破綻と言わない。それが普通の人間である。そんな、いくつもの性格が入り混じった普通の人間のひとりひとりが、それぞれに好き勝手なことを言いながら入り混じって、社会に生活している。世界は一色ではない。一色ではないから、美しい。

 ミヨーは、僕たちを心から肯定してくれる作曲家なのだ。

(2013年10月25日「花房晴美 室内楽シリーズ パリ・音楽のアトリエ<第7集 ミヨーの夜会>」プログラムノート 於・東京文化会館小ホール)

2013年10月27日日曜日

極上の時間、職人、愛、ニーノ・ロータ

銀幕という言葉を聞かなくなって、久しい。

ざらざらとささくれ立った六畳間。ときどき横顔を引っ叩かないと仕事をサボる足つき家具調ブラウン管で見るドラマも、確かに悪くはないけれど、映画館で観るスターは、何と言っても格別だった。歩いて、バスに揺られてたどり着く、木の床、べこべこの赤い椅子。真っ暗な客席のうしろから一本の光が照射され、フィルムに記録された遠い異国の日常が、僕たちの非日常となって、目の前の大きな白いスクリーンに映し出される。戦中派の父と一緒に観る男女のキスは、とても気まずい。

マーロン・ブランド、アル・パチーノ。そこにあのテーマが流れてくると、否が応でもマフィアとなる。そんな時代の映画音楽の立役者として、ニーノ・ロータの名前は、どうしても外せない。「ゴッドファーザー」の旋律は彼の名を知らぬ者の胸にも深く刻み込まれている。すでに数々の映画音楽で名声を博していたロータの元に舞い込んだこのハリウッドからの仕事は、ますます彼の地位を不動のものとした。

と同時に、彼の「本業」である仕事を、忘れさせた。

1911年、音楽一家に生まれ、ミラノ音楽院などで勉学に励み、ストラヴィンスキーなどとも親交を持っていたロータ。「本業はクラシックの作曲家であり、映画音楽は趣味だ」と、彼はわざわざ言わねばならなかった。ソ連ではショスタコーヴィチが、日本では芥川也寸志が映画のために書いていた時代。ロータもまた、交響曲やオペラ、数多くの室内楽作品を書いた作曲家であり、それらは近年再評価され、演奏会にとりあげられる機会も増えている。

でも、やはり映画なしに彼は語りきれない。質、量ともに他の作曲家を凌駕し、後の世代の映画への影響はあまりに大きい。「趣味」という言葉は様々に解釈されたが、しかし、愛の無い趣味なんて、ない。強く求められれば求められるほど、彼は多くの愛を映画に注いできたのである。

特に、彼とフェデリコ・フェリーニ監督との共同は映画史でも特異な位置を築いている。それはフェリーニ初の単独監督作品である52年「白い酋長」から79年「オーケストラ・リハーサル」に至るまで四半世紀近く続いた。この79年とはつまりロータの没年であり、彼の死によって仕方なく中断されたと言って良い。

「道」と「カビリアの夜」は二人の初期を代表する傑作。ないがしろにされ、捨てられる女。愚かでだらしなく、どうしようもない男。そんな人生の肯定、讃歌。痛切に生きる命に注がれるどこまでも優しいまなざしが、ロータのやわらかい筆と合致して、人々を号泣させた。

カンヌでパルム・ドールを獲た「甘い生活」で二人の共同はひとつの頂点に達したのち、妻ジュリエッタ・マシーナの演技やロータの音楽の力を頼り、フェリーニはますます独創的な映画を作った。「8 1/2(はっかにぶんのいち)」や「魂のジュリエッタ」のように、物語があってないような、古い道徳から自由な、からりと湿気のない、それでいて幻想的な世界。それはロータの性格にも合ったのだろう。彼の筆は(誤解を恐れず言えば、彼本業の作品よりも)ますます自由闊達になり、本来の個性がのびのびと足を伸ばしている。

両者の仕事は綿密な打ち合わせのうえに行われ、フェリーニはロータの音楽を必要とし、ロータはフェリーニの映画言語を理解した。芸術としての仕事をさせてもらえる環境は、ロータにとっても心地良いものであっただろう。

フランコ・ゼフィレッリ監督とは、元は舞台での出会いである。ゼフィレッリの舞台のために作曲された「じゃじゃ馬ならし」の音楽は、映画化に際してそのまま転用されている。この映画の成功を受け、二人は再びコンビを組んで、傑作「ロミオとジュリエット」を制作した。双方ともシェークスピアの戯曲。中世を意識したのか、ゼフィレッリの絵画的な色彩とも合い、ロータの筆は典雅である。

美男の代名詞アラン・ドロンの立ち姿と絡む感傷的なメロディの数々も忘れられない。「ヴェニスに死す」でも知られるルキノ・ヴィスコンティ監督の「若者のすべて」や、ルネ・クレマン監督の「太陽がいっぱい」が、それだ。ただ、日本での絶大な支持とは対照的に、彼自身はクレマンとの仕事を後悔していたという。映像が全て出来てから作曲させるクレマンの方法は、彼には不愉快だったかもしれない。

このような彼の姿勢は、むしろ古典のオペラ・オペレッタ作家に近いものを思わせる。イタリア人らしい職人技。プライドをかけた映画熱が、映画を知らない人までも涙させる美しい音楽へと昇華しているのだ。今宵は一ノ瀬、山田両氏そして三浦氏本人の編曲で、ロータの音世界を堪能する。僕たちのセピア色の思い出までもが、総天然色で蘇る。極上の贅沢な時間。そこに身を委ねるとき、僕たちは彼からひとつのメッセージを受け取ることだろう…「人生は祭りだ、共に生きよう」と。

(2013年9月8日 「三浦一馬 meets Nino Rota」 於・茅ヶ崎市民文化会館大ホール)

2013年9月24日火曜日

ラフマニノフとチャイコフスキー

 チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番の編曲が、間もなく終わる。
   * * *
 去年のこと。作曲家でありピアノ・デュオ奏者でもある加藤真一郎君から、編曲依頼の電話を受け取った。作曲家からそんな電話が来るとは、よほどのことに違いない。聞けば、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番を、できるだけ少ない人数の編成で、全曲。締め切りは半月後だという。
 「断られたら僕がやるしかないんだけど…」彼はちょうど彼らのデュオのリサイタルの準備に追われている真っ最中だった。おまけにお子さんもまだまだ小さい。こんな仕事をすれば練習する時間などたちまちなくなってしまうだろう。困っている友人は、助けなければならない。
 この話の本来の依頼主は桐朋学園で、僕には桐朋出身の友人がたくさんいるけれども、学校としての桐朋には、まったくと言って良いほど縁がなかった。あちらとしても、僕の名前がいったい何者なのかを知らなかったはずで、後日談にはなるが、学外の僕でもこの仕事が出来るよう、加藤君がいろいろと心を砕いてくれたらしかったことを聞いた。
 僕は、ひとりずつでも演奏可能な弦5部と、クラリネット、ホルンそれぞれ1本ずつで、ラフマニノフを書き換えた(しかし、弦ひとりずつではピアノの音量に太刀打ちできず、本番では14人に増えた)。お世辞にも楽な仕事とは言えなかったが、それに見合う以上の、有り余るほどの教訓と、新しく刺激的な出会いとを得た。学園主催の演奏会で、僕の編曲で弾いた反田恭平君は、その後、日本音楽コンクールの覇者となった。僕は彼の成功を、もちろん我がことのように喜んだが、驚きはしなかった。彼らのリハーサルに編曲者として付き合っていたのだが、僕はただただ座っていれば良く、もう何も言う必要が無かった。「彼は面白いよ」と加藤君が言ったとおりの人間だった。
 その演奏会では、コンクールで3位となる江沢茂敏君とも知り合った。彼もまた実に面白い人間だった。本番を終え、みんなでにぎやかに食事をした。僕の世代は彼らに教える立場となっているが、僕は、いつまでもふらふらしている悪い大人である。だから、等身大の彼らが、いま、何を考えているのかを、たぶん彼らの先生たちよりも、知ったと思う。僕のチャラさも少しは役に立つ。その上で言うのだが、日本の音楽の将来は、きわめて明るいと思う。
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 余談。縁あって知り合った彼らの晴れ舞台を見に行こうと、東京オペラシティに駆けつけた僕だったのだが、チケットはすでに売り切れていて、客席には入れなかった。「日本音楽コンクール」のチケットが売り切れるものだなんて僕は知らなかったのだ。作曲部門はあんなに余っているのに。僕は自分の生活環境の違いに苦笑してしまった。
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 とにかく、今年も僕は編曲を依頼され、それが間もなく仕上がるわけである。
 去年がラフマニノフで、今年がチャイコフスキーと、続けて同じロシア人。しかもどちらも34歳から36歳ごろの作品。現在35歳の僕にとって、これは興味深い比較となった。去年の本番とまったく同じ編成を選んで書いたので、余計に興味深く仕事が出来た。
 チャイコフスキーの1番と言えば、ニコライ・ルビンシテインの批評が良く知られている。とんでもなくひどく言われて、それでもチャイコフスキーは自分を曲げずにこの作品を書ききり、ハンス・フォン・ビューローに送り、「独創的で高貴だ」と評した彼によって初演がなされ、成功し、ルビンシテインも後にこの協奏曲を弾くようになった。有名なエピソードである。
 この手の発言はどのような経緯で残っているか知れない。人間とは昨日のことも演出して喋る動物なのだ。当然、いろいろと尾ひれがついているものだと僕は思っている。もっとも避けるべきは「ルビンシテインはチャイコフスキーの意図や、この作品の真の価値を理解できなかったのだ」というような物言いである。本当にどうでも良い作品ならば、まず「書き直せ」と言うはずもない。適当に褒めて放っておくはずだ。だから、おそらくはこの曲を正しく理解したうえでの、親切心であろう。
 初稿も覗いたが、2,3楽章の変更はほとんど目に入らなかった。ほんとうに細かい部分でいくつか見つけたが、音楽的には、さして重要ではない。それに対して1楽章のピアノパートの大幅な変更。ルビンシテインの批評も、ほとんど1楽章に集中していただろうと思う。それをチャイコフスキー本人も、気にしていたのだろうとも思う。後に、本当に書き直したのであるから。
 2、3楽章には素晴らしい部分がたくさん詰まっていて、編曲しながら何度も感嘆した。だからこそ、僕がルビンシテインの立場だったら、やはり1楽章を書き直すように説得するだろう。誰にも真似できない着こなしで良い服を着ている人が、1楽章では一糸まとわぬ野生の裸なのだ。それをビューローのように讃える自信は、僕には無い。ビューローはよほど分かっていたのか、またはその逆である。
 しかし、嘘でもいいから賛同してほしいという気持ちも、作家にはある。わざわざ悪く言われるために苦労するなんて、割にあわない。チャイコフスキーの気持ちもわかる。心が練られ、整い、引き締められた2、3楽章(最後に近づけば近づくほど、ますます厳しく、アイデアが清冽となる作家も珍しい)と、行き当たりばったりで重箱に詰め込んだ1楽章。どちらがいっそう苦労しているかと言えば、上手く出来たほうではなく、散らかっているほうのはずだから。
 ルビンシテインがどのような部分をどのような意図で指したかはわからない。僕はオーケストレーションにおいて、書き直したほうが良い場所を具体的に指し示すことができる。曲の序奏、間奏、コーダで、同じ人間の仕事とは思えないほど、クオリティが違うのだ。コーダのオーケストレーションなどは特に、端的に言って、粗い。それらは、作品としては欠陥であり、欠点である。
 欠点を指摘して書き直すよう説得したルビンシテインは「正しい」。ただ、チャイコフスキーは、結果として「強い」。音楽史は一点の誤謬もない完璧な作品が名作・傑作として残るのではない。強い作品が残るのである。いくつもの欠点を思いつつも1楽章を編曲し終えたとき、僕の胸には妙なうれしさが込み上げてきた。とにかくやり切った、という感覚だ。それがこの曲の強さであり、その強さが、ピアニストやオーケストラや聴衆の面々の心をとらえて離さないのだと思う。
 勧善懲悪とも言えるドラマが昨今流行ったが、言いたいことを自分の代わりに言ってくれる物語の主人公には、どうしても無視できないカタルシスがある。要するに、そういうことである。
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 チャイコフスキーは、楽器の現実は和声の理屈を超えることを、生理的に理解していたと思われる。日本やアメリカで基礎的な教育を受けてきた演奏家には、(この曲の名曲としての地位を一瞬でも忘れることができるのであれば)奇異に感じる音がいくつかあるはずだ。逆にヨーロッパで訓練してきた演奏家(特に弦楽器)にとっては、どうにも居心地の悪い音があるはずである。その楽器でなければ、その音である必要がない。ホールの空気が鳴ったとき、和声学上の矛盾は相殺され、むしろ効果が生まれる。それらは、そういう音である。
 1楽章のコーダのオーケストレーションが粗いと書いたが、それは粗いのであって、下手なのでも、間違っているのでもない。粗い部分であっても楽器の側の視線からアイデアを着想しており、やはり名手である。それはつまりオーケストラの人数分の耳を彼が同時に持っているということであって、言うなればミヨーの多調性などよりも、よほど多義的の音楽である。このような、習得と運用に非常に手間のかかる作曲の手法は、最近では嫌われている。
 一方、ラフマニノフの耳には、どんな楽器で弾かれても、同じ音高の音は同じ音に聴こえていたはずである。ゆえに別の楽器にその音をそのまま当てはめても彼の音楽は成立する。下絵の鉛筆の線のうえで赤か青かと色を迷う彼には、チャイコフスキーのようなことはできない。非難を承知で偉そうなことを言うが、僕の書いた弦のパートを元の編成でもそのまま使ったほうが響きが良くなるだろうと思える箇所すらある。音が多いことを除けば、ラフマニノフのほうが、仕事は楽だった。
 ただし彼のカデンツの感性は特殊で、すでに皿が揃って乗っているテーブルにすっとクロスを敷いたり、だるま落としのように一段外して別の場所に解決を用意するような芸当は、チャイコフスキーにはできない。他の作曲家で出来る人も、あまり思い浮かばない。独奏のピアノが足場をはずされて手品の美女のように宙に浮いたり、はたまたジェットエンジンで飛ばされたりするのも、ひとえに彼の和声感による。あんな黒々と重い図体の楽器が飛んでしまうのだから、見ているほうは爽快である。一義的なのだが、彼の音楽の特質は、この重力の自在さにあると言える。
 ラフマニノフがチャイコフスキーの1番を心から愛していて、勉強し、自作に取り込んだと思われる箇所は随所にあった。だが、そういう部分は、チャイコフスキーの場合だと無防備で、編曲しやすかったのだが、ラフマニノフの場合だと深い思い入れがこもっていて、困難だった。それは時代の違いゆえの作曲技法の変化という文脈で理解するよりも、もっと適切な表現がある。つまり、人が違うということだ。チャイコフスキーとラフマニノフとでは、人が違う。人が違うということは、音楽を聴く耳が違う。耳が違うということは脳の中身が違う。脳の中身が違うということは、もう何もかも違うのである。人はめいめい勝手に音楽を書き、弾き、聴いているという現実に向かい合える音楽理論なんてものは、実のところ、皆無である。
   * * *
 チャイコフスキー35歳に、出来たこと、出来なかったこと。ラフマニノフ35歳に、出来たこと、出来なかったこと。シューベルトならばすでに死んでいる35歳の僕の形容詞は、いまだ「若い」である。
 チャイコフスキーと言えば禿頭と白髪、ラフマニノフと言えば目の下のくまとたるみと皺。そこから人生が逆算されて、すでに出来上がった楽譜から、音楽は分析、演奏される。しかしまだ若かった彼らは、来年も再来年も本当に仕事があるのかどうか、人生設計すらおぼつかないままに、真っ白な五線紙に向かって、等身大の自分の姿の、ありのままを、素直に、必死に、書いている。この視点は、あまり無視されるべきではない。老練だけではなく、若さもまた、この音楽の歴史を担ってきた大切な要素であるという意味で。
 ここに挙げた彼らの姿は、後年の彼らの姿と全くの同一ではない。ある部分は残り、深化され、ある部分は改善され、また別のある部分は、改善されたがゆえに捨てられたか、または失われている。だが、彼らが35歳のときに出来なかったことが明らかになっても、それで彼らに対する敬愛の念は失われはしない。難しい暗算の出来る子が逆上がりが出来ないからといって、それが軽蔑の対象になるものだろうか。むしろ、僕はこういう仕事をするたびに、彼らをよりいっそう心から愛せるようになる。そして勇気をもらうのだ。僕も、僕以外の何者かになる必要なんて、どこにもないのだということを。自分が向かい合っているその時の自分の生活に対し、その時ごとに態度を決め、その時ごとに最善をつくすことだけを考えれば良いのだということを。
 そもそも完璧な芸術なんてものはあり得ないのだが、自らの創作したものが完璧であろうとなかろうと、なりふり構わずその態度を貫徹したという人が、音楽史に燦然と残ってきているという事実もまた、無視されるべきことではない。

2013年9月19日木曜日

交響曲の初演を終えて

 8月26日。交響曲の初演を終えた。
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 半月ほどが経ち、ようやく、この作品に対しての「賛否両論」の両方の論を読むことができた。人の意見というものは、やはり自分の鏡になる。それは、人の好き嫌いに合わせるということではない。好き、と、嫌い、の両者が、どれほど同じ事象を取り上げているのかが、僕にとっては重要だ。
 僕だって人間だから、好きだと言われれば嬉しいし、嫌いと言われれば、やはり悲しい。ただ芸術は多数決の議会ではないし、僕は世論調査の集計係でもない。人それぞれが人それぞれに自分の好きな芸術を味わえば本来それで良いはずで、酒の飲めない人に酒を勧めたり、シイタケの嫌いな人にシイタケを勧めるのは、良いことではない。
 エノキやナメコなど、シイタケが嫌いな人も食べられる別のキノコになりたくても、残念ながら、シイタケとしてこの世に生えてしまった以上、自らの姿も、味も、変えることができない。ますます立派に傘を開き、胞子を大量に振りまいて、ますますシイタケ嫌いに嫌悪されるしかない。
 繰り返し、まことに残念ながら、それが成長というものである。
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 さて、今回。僕にとって大きな収穫だったのは、賛否の両方が、まさにまったく同じキーワードを取り上げて、それを片方は是とし、片方は非としていたことだった。その単語は当日配布のプログラムノートにも記載されていない。彼ら独自の考えのはずだ。
 主宰者に依頼され、舞台に乗る演奏者向けに用意した文章というものがある。僕はそこで、それとまったく同じキーワードを用いて、演奏者にこの作品の意図を説明していた。僕はこの一致を非常に嬉しく思うのだ。小鉢に盛ったシイタケの煮物を、聴衆はみな、それはシイタケである、と、答えたのである。会場にいた人々に誤解なくテーマを伝えることができたのだと、僕は理解している。
 シイタケ好きの方に感謝しているのは言うまでもない。残さず食べてくれて、どのように下ごしらえをしてどのように煮たかまで指摘してくれて、これは作り手の冥利である。だからこそ余計に、シイタケ嫌いな方に、僕の作品を正しく受け取ってくれたことを感謝しているということをお伝えしたい。あなたのような存在が、僕の今後の指針になるのである。
 これは嫌味で言っているのでも、エキセントリックになって言っているのでもない。(壮絶な嫌味なんて言うのは実に簡単なのだ。刃物を抜いて相手の急所を刺せばそれで終わりだ。それが何の生産になろうか。)指針とは文字通り、字義通りの意味である。賛否の賛だけであれば、もしかしたら過大に評価してくれているのではないかという想いと、彼らに対する甘えとを僕は捨てきれない。否の方がまったく同じことを言ってくれたおかげで、僕は自分の足跡を正しく確かめられたのである。
   * * *
 音楽は、音という、まさに抽象以外の何物でもない材料で、耳という、まことにいい加減きわまりない臓器に訴えかける芸術である。そんなものを作るのは信じられないほど面倒くさい。とんでもない分野を選んでしまったものだと後悔しきりである。みんな先に言ってくれたら良かったのに。でも、ここにしか自分の人生がないことも、もう分かっている。
 僕はどう転んでも、現代日本の、ひとりの若者(今のところ)である。偉大な音楽の先人たちを尊敬はしていても、僕が現実に味わい、愛しているのは、この現代、この日本におけるひとりの若者(今のところ)としての生活である。僕は、それ以外の生活を、知らない。僕にとってそれ以上に大切な生活を、知らない。僕は残念ながら、バッハでもハイドンでもモーツァルトでもベートーヴェンでもブラームスでもない。西澤健一という名の、チャラそうな、男である。
   * * *
 最後に、この大事な機会を与えてくれたクライネス・コンツェルトハウスの皆様と、主宰の小澤氏、陣中見舞いに野菜を送ってくれたU氏、そして会場の皆様方に、改めて、感謝を申し上げます。

2013年7月6日土曜日

寄席に行く


 交響曲については改めて書くとして、寄席である。
 作曲を終えたら寄席に行こうと思っていたのだ。
 なにも今回が初めてというわけではなく、一仕事終えて、依頼主からなにがしかのものを頂戴するたびに、僕はそのなにがしの一部を手にして、寄席に行くのである。
   * * *
 落語が本当に理解できれば、対位法の肝心要なんて簡単に理解できると僕は思っている。バッハの無伴奏の聴き方や弾き方はおろか、書き方だって理解できると思っている。日本の音楽が文字通りに確立するときには、おそらくそれはヨーロッパのそれよりも一歩先に立つことになる。その鍵は寄席が握っている。落語や漫才が握っている。そう思っている。寄席は日本でもっともたいせつなソルフェージュの道場なのである。
 まだ芸の確立していない漫才師や落語家は、内容を聞かせようとする。上手い人は、音を聴かせる。音を覚えさせる。その覚えさせた音で、客に反射を起こさせる。面白いことを言おうとする人では、客席を温められない。どんなにたわいない話でも、いくつもの音の色や素材を駆使できる人は、客席を温められる。こういう彼らの教訓のおつりで、(少なく見積もって)音楽の90%くらいのことはマスターできる。
 自分の仕事が仕事でこんなことを言うのも憚られるが、コンサートホールなんて全部潰れて消えても、寄席さえ残っていれば、僕たちはどんな状態からでも、昭和20年の夏や平成23年の春よりひどい状態になっても、立ち直ることができる。寄席が無くなったら、どんなに表面上繁栄していても、僕たちは死んだも同然。だから自分の稼ぎは、少しでも寄席に落とさなければならないのである。

 オペラはまた別の話。これの鍵を握るのは歌舞伎だ。
 どうだい、おれのつむじは左曲がりだが、新大久保や鶴橋あたりで騒いでいるやつらよりよっぽど国粋主義者だろうよ。吸ってるタバコもわかばなんだぜ
   * * *
 だから僕は、演者を選んで寄席に行くということはしない。とにかく行く。平日のゆるい客席の雰囲気も全部ひっくるめて、寄席である。夜の新宿末広亭。主任は桂米福、演目は「抜け雀」だった。一文無しで宿に泊まった絵師が抵当にと屏風に描いた雀が、日の光を浴びて飛び立つ。こういうファンタジー、寓話が、楽しくないわけがない。現代の僕たちだって、寓話を語って良いのだ。嘘八百の作り話を語って良いのだ。それが人に一陣の風を遺していくとき、それは、本当の歴史よりも、よほど真実の歴史になる。だいたいにおいて、人が「正しい」といってする話は、まったく面白くないのだ。
 僕は作曲中、行き詰まったり疲れたりして何も書けなくなったときには、コーヒーを飲み一服しながら、8代目桂文楽の落語、もしくは夢路いとし・喜味こいしの漫才を聴いていた。彼らは本当に洗練された偉大な芸の持ち主だと思う。どれほどのことを教わったかわからない。彼らのような存在は、寄席がある限り必ず今後も現れる。現れないはずはない。そうして現れる洗練された芸人が、僕たちになにもかも教えてくれるだろう。日本の音楽のためにも、自分の芸のためにも、僕は寄席に通うのである。

2013年4月27日土曜日

展開部

 芥川也寸志が著書「音楽の基礎」で、音楽の大前提として「静寂」を取り上げて論じている。赤い紙に赤いクレヨンで絵を描いてもわからない。環境と同化してしまう音は音楽には聴こえない。音楽を音楽として把握するには、ある程度の静かな環境を必要とする。まったくその通りとしか言いようのないことだが、当たり前すぎるからこそ、忘れがちにもなる。彼が生きていた時代よりも街ははるかにうるさくなった。電話をかければ一方的に(たぶんその人が好きな)音楽を聴かされる。僕はあれに辟易している。
 出会う環境こそ違えば、なかなかいい歌じゃないか、と、思ったかもしれない。しかし、かけた途端にその曲の途中から一方的に始まって、その人が出るまで一方的に聴かされて、その人が出たら一方的に切れる。辟易する。どんな歌にだって多少なりとも作り手の気持ちは乗っていよう。そんな人の気持ちの、もっとも不遜な使われ方だと思う。
 でも、その金で生活している人がいるのだと思って、僕は耐えている。ただ、こんな方法に頼らずとも歌手たちが生きていけるほうが、もっと良い。
   * * *
 このような音楽の無惨な「切り取られ方」は、傍線部の文章について次のアからオのなかで作者の気持ちにもっとも近いものを答えなさい、という、僕たちが子供のころに散々見てきた、あのありがちな国語のテストの設問に似ている。
 「恥の多い生涯を送って来ました。」だから僕の人生は誇らしいものです、なんて答える人は、まずいない。もしも文学に要点があるのなら、作家は最初から要点だけを書けば済む。だらだらと小説にする必要もない。作者の気持ちにもっとも近いものを答えなさい。これは絵画や音楽を鑑賞するうえでも悪い影響を与えていると思う。
 人がもっとも把握しやすい芸術は、文学である。その次に美術ときて、音楽となる。視覚を鍛えるには文章が役立ち、聴覚を鍛えるには文章と視覚の両方が手がかりとして役に立つ。だから文学史は美術史に先んじ、美術史は音楽史に先んじる。これが逆になることは、ほぼない。一瞬、ベートーヴェンが美術の先に立ったと言えるだろうか。
 外国語の習得をことごとく失敗している僕が偉そうには言えないが、たとえば外国語の習得も、この順を追っていくしかないだろう。でなければ、我々の国の歴史における漢文や蘭学の発展というものもありえない。
 だからこそ文学はもっとも長寿の芸術でもある。紀元前のギリシャ悲劇も我々は読める。だが、それがどのように発音されていたのかを確かめる術はない。エジソン以来の録音媒体の登場で変化するかに思われた聴覚も、流行の廃れは早いことが、もう明らかになっていると僕は思っている。
   * * *
 要点とは、つまり点である。
 この点の位置を説明するには、座標が必要となる。恥の多い生涯を送って来ました。その恥の点とは、xyのどの位置にあるのか。人によっては、生涯ぐだぐだに女に依存していることが恥かもしれないし、人によっては、生涯まったく女っ気がないことが恥かもしれない。両者同じ程度に感じている「恥」であっても、人の芝生は青いのだから、この場合、他方にとって他方は、むしろ羨ましい生涯である。
 つまり点がひとつ打たれただけでは、それは点であって、点以外ではないのだ。赤地に打たれた赤い点なのか、青地に打たれた赤い点なのか、白地に打たれた赤い点なのか。そしてそれは縦と横のどの位置に打たれたのか。緞帳が開いたら、もうホセの刃がカルメンに刺さっていた。物語は始まることなく終わっているのである。
   * * *
 作者の気持ちに近いものを答えなさい。この影響はどこに出ているのか。聴衆は作品の要点を答えるために音楽を聴いているのか。そんなわけはない。
   * * *
 どんな聴衆も、音楽の感想は音で抱いているものだ。
 どんな大衆酒場の酔っぱらいが、あの歌のここの文句が良いという場合にしたって、やはりこの酔っぱらいも、音楽を音で記憶している。
 数年前のある日。いつものように僕は酒場で知らないおじさんに絡まれて、彼は1時間ほど僕の隣でバラライカ、バラライカと歌っていた。おかげで僕は久しぶりに会った友人とまったく話が出来なかったのだが、この彼のバラライカには、本来のバラライカの意味はない。彼はバラライカという単語を手がかりに記憶の音を引っ張り出しているのである。バラライカという単語を忘れていたら、彼はハミングででも歌ったはずだ。
 歌詞は出てこないけど、あの歌は良いよね。そんな酔っぱらいもいる。あの歌の何が良いのか。音である。僕たちは食べたものも、言葉ではなく味覚で覚えているはずだ。多忙に長距離の移動でようやくありついた立ち食い蕎麦は美味い。刺激物を大量に食った直後に痺れた舌で神田の「やぶ」を食っても、そんなに美味くはあるまい。
 青春時代に出会った一曲は、いつまでも、自分の青春時代を回顧させる一曲となる。あのおじさんは、そんな彼の素晴らしい青春時代に、たぶんどこかの素晴らしい歌声喫茶で、その歌のあるべき位置にあった音に出会って感銘を受けたのだ。そこがたまたまバラライカという歌詞だったのだ。彼が経験した素晴らしい時間のながれをバラライカという歌詞に象徴させて、僕に教えてくれていたのだ。
 このような意味において、聴衆はどこまでも正しい。聴衆が切り取る音楽には罪はない。僕を辟易とさせる電話のあれは、むしろ提供する側の罪なのである。
   * * *
 こんな教訓を彼は僕に与えてから、さんざんハイボールを飲んで歌ったあげく、僕の飲んだ焼酎ロックの金も払って「ごちそうさん」と上機嫌で去って行った。と、うまく提示部冒頭の素材がかえってきたところで、この話は再現部に続く。

2013年4月26日金曜日

ぬか漬けを食う


 精一杯に働いて、朝まで飲む。それが若き母の日常だった。
   * * *
 僕は母方の親戚と、ひとりも会わずに育ってきた。母の両親は高度経済成長の途上であの世の人になっていて、母の弟は戦後間もなく、幼くして死んでしまった。要するに誰もいなかったのだ。早死の家系なのだと母は言っていたが、母の祖母(つまり僕の曾祖母)は白寿を得てから死んだ。昭和15年の母の時代の祖母なのだから当時としては珍しい長寿で、死んだときには大往生を祝って赤飯が炊かれたという。
 母の父(つまり僕の祖父)は、毎日飲んではちゃぶ台をひっくり返して暴れる、絵に描いたような飲んだくれだったという。戦後は立川の基地で米軍相手に仕事をしていたそうだが、そこで手にした金をすべて飲んでしまった。周囲の反対を押し切って従妹と結婚したのが祟ってか、母は盲人として生まれていた。障害者に対して社会は昔よりも現代の方がはるかに優しい。めくらの子供なんて世間様に見せられたもんじゃねえ、と、幼い母は押し入れに閉じ込められ、近所の子供からは石を投げられた。
 しかし八王子の盲学校に通い始めた母が、一家の家計を支えるようになった。
 当時の盲人の代表的な仕事として、按摩がある。学校に通いながら按摩を学び、客を相手に商売して、金が手にできる。それが大事な資金となった。灯火管制の暗い部屋で飯粒が優雅に泳ぐ雑炊を食ってしのぎ、空からはB29の爆弾が降りそそぎ、御名御璽の玉音がラジオから流れたあとの立川で、母は妹を背中に負ぶって働いた。
   * * *
 その妹が、行方不明なのだと母は言っていた。
 あんにゃろうめは恩知らずで頭にくらあ。と、母は思い出すたびにぶつぶつ言っていたが、ミレニアムを過ぎた3年目にして、この妹(つまり僕のおば)とようやく会うことができた。開口一番「姉ちゃん今までどこほっつき歩いてたんだに」と言って、僕はびっくりした。聞けばおばさんは一度も多摩を離れずに、ボランティアで母校の盲学校(おばさんも盲人だ)の事務仕事を手伝ったりしていたのだ。なんのことはない、行方不明だったのは僕の母のほうだったのである。
   * * *
 母は(外資のブランドショップが占拠する前の)青山通りに住んでいて、オリンピックと都電の消滅とを見送った。東急のホテルで按摩をしながら生計を立て、土地柄、芸能人や有力者の客が多く(人気絶頂の坂本九なども、お得意様のひとりだった)立派な店でよく酒も飲ませてもらっていたという。高価な洋酒の筆頭がジョニ黒の時代。更新した按摩師の免許には美濃部知事の署名。母は腕利きの稼ぎ手であった。父と見合いをし、結婚して仕事を辞めると職場に告げたときには、上司と相当な戦争を繰り広げたらしい。
 母は全盲ではなく弱視なので、まったく見えないことはない。ただ、いつ見えなくなるかはわからないという不安と戦っていた。稼ぎを捨ててでも結婚を選んだ母の目は、今でもまだ見えている。本を鼻にくっつければ、読める。点字はかえって読むのが面倒らしい。「あたしゃ一人が気楽でいいね。目がつぶれねえと前もって分かってりゃあ一人でいたのになあ」と、時折りぼやく。「でも、そしたらおまえさんは生まれてねえか。」こりゃまた失礼いたしました、と、古いギャグも忘れずに付け加えるのである。
   * * *
 今では埼玉の奥地で毎日寝転がっている母の半生は、書けないことも多い。
 五味川純平から「小説のモデルになってくれないか」と母は口説かれていた。あったことをそのまま書けば物語になるほど壮絶な半生だった。だが母は、大事な親友を案じてそれを断わった。おまえさんも生まれたからやっぱし断わってよかったよ。世間様に知られるとはおっかねえことだかんな。僕が生まれると(大好きだった酒も含めて)それまでの生活をすっぱり断ち切った。だから僕も、母から聞いた話をこれ以上は書くまい。
   * * *
 母の父については、母の思い出を聞いて知っている。
 母の妹については、聞くまでもなく直接会って知っている。
 しかし、母の母については、母は思い出を語ろうとしない。「どうしょもねえクソオヤジ」と違って優しい人だったことぐらいは漏れてくる。それ以上のことが何も分からない。
 ただ母は、母(つまり僕の祖母)のぬか床を受け継いで持っていた。どんなに飲んで、ぐでんぐでんに酔っぱらって帰ってきた日も、かかさず樽をかき回して、野菜を漬け続けたぬか床であった。煮物の日でも、カレーの日でも、ぬか漬けは毎日の食卓にかならず乗っていて、子供の僕は当たり前のようにそれを食べていた。面倒臭がりの母でも、このぬか床を父に触らせた姿を見たことがなかった。
 小学5年の夏。母は体調を崩して入院した。
 僕は父の実家に預けられ、従兄姉と遊んで昼を過ごし、夜は父が迎えに来た。入院は一か月ほどかかった。母は大の薬嫌いで、処方された薬をこっそり捨てていたのだ。こんなもん飲むくれえなら治んなくったってかまあしねえよ。母は小さな声で、しかし頑なだった。
 そんな不真面目な態度でもなんとか「釈放」され、「娑婆」に帰ってきた母は、いつものように漬物をしようとぬか床の樽の蓋をあけた。父も母も入院などはじめての経験で、ぬか床のことなどすっかり忘れていたのがいけなかった。塩揉みした3本のキュウリを手にした母から、悲鳴ともため息ともつかない声が漏れた。
 だめんなっちまってらあ。
 母はしゃがみ込んだまま動かなかった。蛇口からは水が流れ、流しの下の扉は開いたままだった。四つ足のブラウン管だけがにぎやかだった。しばらくして、母は死んだぬか床を、木の樽ごと黙って真っ黒いビニール袋に包み、その口をへたくそにガムテープでとめた。入院する前よりよほど具合悪そうに、母は小さく背中を丸めていた。
 こうして、母しかしらない祖母の歴史は、ごみの日に火葬に出された。
 「あーあ、ギョメーギョジ。」
 縁側にサンダルを放った母がさばさばと言った。
 「なあにそれ?」
 「さあねえ、あたしゃあんだかしらねえけどよ」ただ、おふくろさんがよく言ってたんだわ。煮物焦がしたときなんかによ、ギョメーギョジってよ。僕は大きくなって勉強するまで、「ギョメーギョジ」の意味を勘違いして、覚えていた。
   * * * 
 さ。だめんなっちまったもんはしょうがなかんべ。母は新しい米ぬかを近所の米屋からもらってきて、ぬか床を作った。はじめて漬けたキュウリは塩の味しかしなかった。あんま美味いもんでねえな。母は笑っていた。そんなことはないよと言いたかったが、僕の顔も父の顔も正直だった。家族三人、馬鹿みたいに顔をつきあわせて、かりかりぽりぽりと青臭いキュウリを齧っていた。
 この新しいぬか床を、父もいっしょになってかき回している今日である。

 【ぬか漬けのつくりかた】
 
 ぬか床 1樽
 野菜  適当
 
 (1)漬ける
 (2)洗う
 (3)食う

 ぬか漬けは漬けた野菜の経験がそのまま味になっていくので、いろいろな種類の野菜を漬けたほうが味が複雑になっていく。味の秘訣は、「継続は力なり」

2013年4月23日火曜日

提示部


 あなたと僕が、とある居酒屋で酒を飲んでいるとする。
 もつの煮込みを食べながら、僕は焼酎を飲み、あなたはハイボールを飲んでいる。僕はタバコを立て続けに吸いながら、僕は僕の興味に従って、例えば演歌の発祥について饒舌に喋っているはずだ。
 ところで会話というものは、ふとしたきっかけで話題が戻ることがある。
 「だからさっきの話じゃないけれども、そもそも自由民権運動というものは」などと僕が喋り出すころには、僕たちが食べたもつの煮込みは、すでに胃袋のなかにある。焼酎もハイボールも肝臓で分解されつつあり、タバコはくたくたの吸い殻になっている。これらが元の姿に戻ることは二度と無い。
 ソナタ形式の再現部というものは、このようなものである。
   * * *
 最近の若い人は、再現部をコピペしちゃうんだよね。と、N先生が酒を飲みながら嘆いていた。変えたくならないのかね。ならないんだろうな。僕が思うに、再現部という名称が良くなかった。他に何が良いのかと聞かれても困るけれども。
   * * *
 すでに消して久しい文章のひとつに、僕が中退直後、とあるレッスンにもぐった際の様子を描写したものがあった。僕は作品を講師の彼に見てもらい、(もう変更のかなわない作品であったが)有益なアドバイスを受けた。最後は彼の最新作の楽譜を、音源を聴きながら、教室にいる一同で見た。
 そこには繰り返し記号が書かれていて、「ようやくこれを書く勇気が持てたんだよね」と彼は言った。書いちゃいけないものなんてないんだ。生徒たちは深く頷いていた。繰り返し記号を書いたところでソナタ形式になるわけじゃあるまいし。生徒たちはくすくすと笑い出した。この「ソナタ形式になるわけじゃあるまいし」の一言に、しかし僕は強く引っ掛かった。前後の文章に矛盾があったからだ。書いてはいけないものはない。ただしソナタ形式を除く。普通に解釈すれば、そのようになる。
 僕は当時、純粋に現代音楽の未来を信じる少年であった。
 だから、自分の作品にもソナタ形式を選択する少年ではなかった。それはもう終わった時代のものだと信じていた。「自分の美意識がソナタ形式を選択していない」のだとも思っていたのだが、しかし彼の一言で、それがわからなくなった。作曲家には何を書いても良い自由がある。そこには、ソナタ形式を書く自由も含むべきだ。そうでなければ自由とは言えない。僕は本当に自由なのだろうか。
 だったら一度、大真面目に試してやろうじゃないか。
 僕がソナタ形式に取り組むきっかけは、そのようなものであった。
   * * *
 まったくの蛮勇であった。僕はこれを人には勧めない。
 少しずつ音楽史をさかのぼっていくことで、僕は断絶を思い知った。
 少し前に「7分間で見る音楽の歴史」なる動画が話題になったが、伝統は本当に、あちらへと流れていったのだと思う。
 特に、第二次大戦を境に、強い断絶を感じた。直感なので根拠は無い。
 だがそれは、こちらの分野の世間的な人気の高い作家の作品でも感じた。例えば、ショスタコーヴィチ。彼の音楽は残っていくのだろうが、人々からソ連と戦争の記憶が薄れていくなかで、代表作の看板は変わっていくだろうと思う。織田作之助の小説のように、彼本人を知らないと読み解けない秘密が多すぎるからだ。
   * * *
 単純だが根本的な問いとして、そもそもソナタ形式は二部形式なのか、それとも三部形式なのかという疑問がある。日本で音楽の教育を受けた者のほとんどは三部形式と答えるのではないかと思う。提示部、展開部、再現部という3つの名称が深く刷り込まれている。
 しかし、それらがきれいに三等分された実例など、見つけるのは不可能である。
 ハイドンやモーツァルトのソナタの後半が繰り返されているのも、展開部と再現部のふたつの部分を繰り返していると解釈するのはやはり不自然で、二部形式の後半を繰り返していると考えるほうが自然である。
 諸井三郎のベートーヴェンの分析を読むと、彼は初期の作品の展開部の短さを個性の未発達として捉えているふしがある。「展開部が小さいという特徴」「展開に対する技術的な弱さ」などという表現が、それである。後期から逆算すればそう言えなくもないのかもしれないが、ベートーヴェン自身がハイドンやモーツァルトから逸脱していった後の成果を初期に当てはめるのは、無理がある。
 では、ソナタでは何が提示され、何を展開し、何を再現しているのか。
 いちばん極端な例のひとつをあげればベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第10番であろうか。何も提示してないし、何も展開しておらず、何も再現していない。そう言っても構わないほどの抽象世界である。この曲については別の機会にもう一度書きたい。
   * * *
 この話はもう少し分けて語らなければならない。
 このソナタ形式の話の主題は、芸術音楽の作曲家はみんなソナタ形式で書くべきだ、などという話ではない。すべての形式に勝るものだ。などという話でもない。音楽という現象をもっとも聴衆に把握させやすい形式ではあるのだが、それでも、そんなことを言いたいわけではない。この話の主題は「自由」についてだ。作曲家は何を書いても良い自由を持っている。その自由とは何なのか。これを、少しずつ書いていこう。酒でも飲みながら。

2013年4月21日日曜日

餃子を食う


 僕は幼い頃から包丁を握っていた。
 代々、西澤家は男子厨房に立つ家系である。僕が生まれたときにはすでに祖父は往生していたので、父から伝え聞くところしか知らないが、祖父は祖母とよく「てめえ台所に入るなっつったろう」と、取っ組み合いのケンカをしていたという。川越・喜多院の門前の団子屋で丁稚奉公をした過去を持つ祖父であった。だから粉の扱いが上手く、祖父の打つうどんは評判だったと聞く。先日亡くなった父の兄も、GHQ占領下の米軍基地で包丁を握っていた人だった。
   * * *
 人が触ると、台所は微妙に変化するものだ。
 いつも手に届くところに置いてある菜箸やしょう油の位置が、なんだか微妙に変わるのである。世界のすべての夫婦も、元はと言えば他人である。「パパが料理を作ってくれるって」という家族サービスも、一日だけで終わるから許されるのであって、「片付けは私がやるから」というのも、あれは感謝というより、縄張りを荒らされたことに対する防衛本能が働いているのである。自分で片付ければ菜箸は元の位置に無事に収まる。
 たとえ縄張りをひっちゃかめっちゃかに荒らされても、この先ずっと旦那が料理を作ってくれるというのなら、そっくりそのまま明け渡すのもやぶさかではなかろうが、普通はそうはならない。3日も旦那が台所を荒らせば、いくら見た目をキレイに片付けようと、「あなた菜箸どこやったのよ」と、ケンカになる。
 祖父と祖母は、毎日の台所が桶狭間だったわけである。
   * * *
 その遺伝子を着々と受け継いだ父は、今でも台所に立っている。
 父はおよそ何でも自分で出来る人で、僕が小学生だったころは割烹着や体操着を入れる袋を家庭で縫ったものだが、それも我が家では母ではなく(母が盲人であるという理由もあるにはあるが)父が縫っていた。そしてそれは素晴らしい出来だった。若い頃はあまりに部屋をキレイにしていたので、女の人が寄り付かなかったそうである。
 これは楽ができるわい、と思った母が、めでたく妻になった。
 もちろん父にも仕事があるから、普段は母の料理であるが、母は面倒臭がりだった。(僕は母のこの血を強く受け継いだ。)盆や正月休みになると母は父に料理を任せていた。母は台所を自分の縄張りだとは思っていなかったようである。
 この手伝いを僕もしていたので、幼い頃から包丁を握っていたのである。正しい切り方、正しい左手の添え方。すべてこの頃に学んだものだ。
 盆の休みには、父は決まって餃子を作った。
 父の餃子は白菜ではなくキャベツである。父いわく、白菜は水が多くて餃子には不向きなのだという。そしてタマネギと、ニラ。これを2本の包丁を両手で持ってリズムよく叩くように切り続ける。狭い台所を埋め尽くすほど大きいまな板。その音が祭りのお囃子のように聴こえて、僕は好きだった。行水もできそうな業務用のボウルがあって、これに山盛りになるほどの野菜を切った。
 これがあまりに楽しそうなので、僕も父にせがんで2本の包丁を借りてまな板を叩くのだが、どうも父のように良い音が出ない。野菜が切れているのかどうかも分からない。結局、諦めて、とんとんとんと音の鳴る父の背中を眺め続けていたのである。
 すり下ろしたショウガとニンニクとごま油の匂いが漂ってくると、そろそろゴールが近いことがわかる。ひき肉とともに野菜が練り上げられていく。素晴らしい音楽作品はスコアを見ただけで美しいのがわかるように、この匂いだけで、美味しい餃子であることがわかるのであった。
 父の餃子の「ひだ」は芸術的であった。小麦粉を溶いた水をのりにして、あっという間にひだを作って餃子を閉じていく。僕は何度真似しても出来なかった。今では少しはひだを作れるようになったが、とても父のひだには敵わない。我が家には餃子が50個くらいは並べられるだろう大きな餃子鍋もあって、これにラードを溶かして焼いた。水と油が戦って、蒸気が木の蓋を伝って部屋に充満する。ぱりぱりと音を立てて口の中で崩れ落ちる皮を想像しては、腹と背中の皮がくっつくのである。
   * * *
 父は若い頃、新宿の中華料理店で働いていた。だからほんとうに、本物のプロの仕事であった。なんでも出来る父だったので、あっという間に、その店の主人よりも上手く餃子が作れるようになってしまった。家をキレイに保つ父だったから、身だしなみもまたキレイに整えていて、客の人気も高かったという。これがどうやら主人には面白くなかったらしく、夜、店でひとり野菜を切っていて、まな板に包丁を置いた瞬間に「てめえ刃物を俺に向けやがったな」と因縁をつけられたそうだ。てめえこそ何言ってやがんでい、と応酬し、そのまま店を飛び出したそうだ。
 僕は、料理上手と世渡り下手の遺伝子を、父から強く受け継いだ。
   * * *
 「誌面の写真をカラーで見たかった」という方のご要望に応じ、かるく一文を添えてレシピ集を月一回、ブログに載せようと思っています。とは言え次回はぬか漬け。レシピもなにもあったものではないので、悩ましいです。
 
 【餃子のつくりかた】

 キャベツ 半1個
 タマネギ 大1個
 ニラ   1束
 ニンニク ひとかけ
 ショウガ ひとかけ
 豚ひき肉 中1パック

 餃子の皮 適宜
 小麦粉  少々
 水    適宜

 ※下味
 しょう油 大さじ1
 ごま油  大さじ1
 ラード  大さじ1
 うま味調味料 少々

 (1)キャベツ、タマネギ、ニラをみじん切りにする。2本の包丁を使ってとにかく細かく切る。
 (2)餡を作る。みじん切りにした野菜に下味の調味料を入れ、ニンニクとショウガをすり下ろし、加え、白っぽくなるまで練り上げる。
 (3)餡を皮に包む。小麦粉を溶かした水をのりにして閉じる。ひだが入れられれば格好良いが、大事なのは肉汁を閉じ込めることなので、無理はしないこと。
 (4)餃子鍋またはフライパンにラードを溶かし、餃子を並べ、中火で少々焼く。コップ1杯程度の水を入れ、蓋をし、5分程度蒸し焼きにする。火は弱火に落とす。
 (5)蓋をとり、水気を飛ばして軽く焦げ目をつける。フライ返しで餃子をはがし、皿に盛る。
 (6)余った餃子は冷凍が可能。凍ったまま焼ける。

2013年4月20日土曜日

花房晴美室内楽シリーズ第6集<フランクの夜会>


 「あのへんの時代の音楽というものは、私はドラッグカルチャーみたいなものだと思っているんです」
 僕がたまたま座った席の斜め前にたまたま座った音楽評論家の谷戸基岩さんと喋っていて、彼はこのように言っていた。「尋常じゃない状態を良しとするのだから、本来、良い音楽になるはずがなくて。でも真面目に書いていた人たちは結局埋もれましたよね。」ちなみに昨日のプログラムノートは彼の執筆。「本当は私は(前回の)サン=サーンスのほうを、むしろ書きたかったんですが」と笑っていた。
   * * *
 ちょっとした縁があり、僕は花房さんのこのシリーズのために、いつもアンコールを編曲している。今回は「ミサ」のなかの一曲「天使のパン」をピアノ三重奏にした。
   * * *
 ところで、ピアノ三重奏を「作品1」として創作の幕を開ける作曲家といえば、なんといってもベートーヴェンである。野心に満ちあふれていて、ツンツンととんがった3曲つづりのセットである。フランクもまた、3曲のピアノ三重奏を「作品1」にして創作の幕を開ける。野心家の顰みに倣うのは野心家である証拠。どうやらピアノ三重奏というのは伝統的にそういう編成であるらしい。僕にもちょっぴり心当たりがある。
 実演を昨夜はじめて聴いた。相当、とんがっていた。
 fis mollのアンダンテで始めるという選択からして、とんがっている。オレ様はそこいらの馬の骨とは格が違うんだ、と言いたげな細かいアイデアで埋め尽くされていて、ついにFis Durになる最終楽章も、すぐにもホロホロと崩れてしまいそうな調なのに、問答無用でギリギリとネジが巻かれる。ピアノに乗った自分が空高く飛ぶためには、ヴァイオリンとチェロの弦を切る寸前まで強く張る必要があったのだろう。いいから黙ってオレ様を支えておれ。ということである。
 飛ぶ、というキーワードが出たところで、ドラッグという主題がここに循環するわけですが、彼のなかでの循環主題とは、作品を器用にまとめるためのものではなく、自分が飛んでも音楽が崩壊しないための最後の担保であって、行けるところまで行ってしまいたい自分を躊躇無く解き放つためのひとつのドラッグだったのだろう。ということが、昨日の演奏でよくわかった。金属のような輝きにまでギリギリと弦を張った徳永、藤原ご両人の頭上で、花房さんは存分に空高く飛んでいた。
 フランクの本当の姿をあばいた一晩だった。 (於・東京文化会館小ホール)

2013年4月19日金曜日

4月号「ロッシーニの餃子」補遺

 月刊「音楽現代」の連載が始まってからというものの、サイトのアクセス数がほんのりと伸びているようである。僕は(若干くどい顔と派手目な私服に反比例するかのように)地味な活動しかしていないものだから、おそらく僕の音楽をご存知の方も多くはないだろうし、読者の皆様が「こいつは何者なのだ」と、あのふざけた文章を読んでお思いになられ、検索してくださった結果なのだろうと思う。恐縮である。
 そんな方々に、あまり考えずに書いていた古い文章を読ませるのも忍びないと思い(それに、今後の連載で使えるネタを見られるわけにもいかないし)、長いこと放っておいたそれらを削除し、ここに新しいブログを用意することにした次第である。という趣旨の文章を前回の投稿でアップするつもりだったのに、ついつい別の記事を書いてしまったのも僕の性格の散漫さゆえなので、どうか何とぞご容赦ください。
   * * *
 さて、本誌「音楽を食う」は、ご覧になった方はすでにご存知のように、料理についても、テーマになった作曲家についても、さほど深くは触れていない。ロッシーニを知りたい人にはそのための本はすでにあるし、餃子を知りたい人にも同様に本がある。僕は音楽の研究者でも料理研究家でもなく、ただのひとりの作家であるので、それらの著者としてふさわしくないと思えるだけの自戒は持ち合わせているつもりである。
 作曲家と料理の関連は、初回「ロッシーニの餃子」にしたためた通りである。ロッシーニの美食がらみの事柄だけを書いていけば、とうぶんの原稿は埋まったことだろうし、(僕の力では探し出せなかったが)リュリあたりが毎日の献立日記でもつけていてくれたら、そしてそれを連載の記事にしたとしたら、それはそれで価値ある読み物にもなったことだろうとは思うのだが、その著者は僕ではないぐらいのことは分かっている。
 だいいち、僕自身がその話に興奮しない。
 どうにもあのご時世の豪華な食事は、僕の胃袋には重すぎる。食欲がそそられない。茶碗一杯のごはんとみそ汁と漬物があれば、僕の食生活は充分に成り立つ。作曲中はほとんど三食たぬきそばしか食べない。僕の場合、料理はあくまで人をもてなしたいからするものであって、ロッシーニのように、自分が食べる分のフォアグラやトリュフのために、作曲を捨てたいとはどうしても思えないのである。
   * * *
 ロッシーニは、なぜ作曲を捨てたのか。
 ロッシーニの人生はロッシーニの勝手なのだから、後世の僕がとやかく言うことでもないことぐらいは分かっている。かく言う僕の人生だって僕の勝手なのだから。でも、彼のあまり知られていない室内楽作品などを聴くと、天性の才能を見せつけてくるアイデアに満ちあふれているし、楽器の使い方にも学ぶべき点はたくさんあるし、彼は厨房に立たずとも何でもできる本物のシェフだったのに、悲しくなるのだ。どうしても、彼の価値がフォアグラやトリュフより低いとは思えないのに、彼のような音楽家が食ったら無くなってしまう「食」に走ってしまうだなんて。
 再評価の機運が高まっている現在とはいえ、彼をとりまく今日の悲しい現実は、しかし8割以上は彼自身の責任である。もしも作曲を辞めなかったら、彼は音楽史にとってさらに重要な作曲家になったことだろうと思う。
 同じようなことは、マリア・カラスにも言えるかもしれない。
 腹にサナダムシを飼ってまでしたダイエットは効果がなかったという話であるが、それはそうだろう。ただの寄生虫だから。しかし、「美」に対して執着を燃やしていた確たる証拠には違いない。事実、痩せ始めてから彼女の没落は始まるわけで、いろいろな憶測が様々に沸き立っているけれど、減量が彼女の没落の最大の原因だっただろうと思う。
 音楽家であれば、わずかな体重の増減が自分の音楽に与える影響を肉感的に知っている。僕でさえ知っている。いちばん痩せていたときは自分の腕の力を胴体が支えきれなかった。贅肉を贅なる肉とはよく言ったものである。ゴージャスな肉襦袢は音楽にどうしても必要なものなのだ。それに彼女だったら、ピーク時の2倍の体重があったとしても、舞台上ではしっかり肺の病で死んでくれただろうに。
 もっとも、彼女が「美」を選んでくれなかったら、見れなかった世界はあった。パゾリーニの映画「王女メディア」で「すべては終わったのよ」と吐き捨てる凄味は、カラスの他に誰が適当だっただろうかと言われると、思いつかない。でも、音楽史としては、やはり彼女には健康を保っていただいて、長寿を得ていただいて、老境の彼女にしか歌えない境地を遺してくれたほうが、よほどありがたかったのだが。
 されどカラスの人生は、カラスの勝手なのである。
   * * *
 閑話休題。
 「音楽を食う」についてであるが、これはひとつの確固たるコンセプトをもって今後も連載を続けていく。そのコンセプトとは、クラシック音楽の予備知識をまったく持っていない読者を笑わすための文章にすることである。
 幸い、イラストを担当している緒裡君は、僕の個展以外のコンサートらしいコンサートには一回も行ったことはないので、この彼をターゲットにすれば良い。ぬか床の樽に老いたブラームスを突っ込んだのは彼のアイデアで、つまり彼の属性も僕と同様に(黙ってさえいれば、実はアイドルのような顔立ちをしているくせに、残念ながら)お笑いである。なのでこちらも本気でボケることができるのである。
 クラシックの予備知識を持っていない読者があの雑誌を読むかどうかは知らないが、しかしクラシック入門編のような文章にする気は、全く無い。様々な音楽が現れては消えて、それでも残ってきた音楽、これからも残っていくであろう音楽はどうして淘汰されないのか(それは「面白いから」に決まっているのだが)。著者が勝手に選ぶ「聴きどころ」なんぞ誰が読んだって飽きる。人によって感性のツボは違うのだから当たり前だ。それよりも、これらの音楽の根元の部分を、いま生きている人間であれば誰にでも分かる言葉で書くことによって、表現したかった。
 そのために、料理は、ちょうど良い材料だったのである。
 当初は音楽雑誌に花を添えるちょっとした料理のレシピ集にするアイデアを担当のXさんも僕も持っていたのだが、どう考えても作曲家のレシピ集なんて誰も求めていない。現在のクラシック業界に必要な努力は、原液をうすめたジュースを量産することではない。むしろ、濃い玉露の一滴を、相手の顔色をうかがうこと無く黙って差し出すことにある。この音楽の魅力を、笑いのフィルターを通すことで、誰にも飲みやすい薄味のジュースにするのではなく、コテコテに濃いエキスにしようと思うのである。
 いざ始めてみると、これは予想していた以上にとんでもなく手間のかかる作業で、むしろレシピ集を書くほうが楽だったのだが、しかしそれは誌面でやることではない。僕が個人で料理教室を開けば良いだけの話である。そんな副業はいつだってできる。誰がなんと言おうと、ぬか床には毎日新しい空気をいれなければならないのだ。それを怠れば、ぬか床は、死ぬ。僕も、もう少しは暴れても良いのかもしれない。
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 ということで、このブログ上で注釈をはさみつつ、連載していきます。
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 本当は、「ビアードパパ」の店頭で売られているラスクを見て、ボツにした文章の使い回しはできないものかなあ、と思って、このブログを開設したことについては、くれぐれも内密の方向で。

2013年4月18日木曜日

「聴衆は正しい」ということ

 新聞を読まず、テレビも見ない生活を続けているので、僕は世情に疎い。
 TwitterとFacebookだけは自分の生存報告もかねて投稿しているが、これらのタイムラインもできるだけ目を通さないようにしている。だいたいは、画面上に見える範囲を一瞥して、終わり。このように情報を目に耳にしないよう極力心がけていても、しかし様々な人の噂は不思議と耳に入ってくるものだ。
 最近では、世間で佐村河内守氏の交響曲が話題であるという。
 テレビで特集を組まれたとのことで、彼の交響曲は破竹の勢いで売り上げを伸ばしているという。人から聞くまで知らなかった。この作品について、会う人ごとに感想を求められるのだが、申し訳ないことに僕はまだ一回も、断片すらも聴いていない。聴いていないので感想を述べようもない。多くの音楽家たちの発言を見聞きする限り、彼らのなかではあまり評判は芳しくないようである。これも、なにしろ現物を聴いていないので、どの程度信用して良いものかは図りかねている。
 ただ一つ。まだ作品を知らない僕ですら、彼の仕事を評価できる点がある。
 それは、交響曲という名の作品を、売ったことだ。
 ついこの間まで、通俗の副題がついていないベートーヴェンの交響曲ですらテレビに流れなかった現代日本で(のだめブームのころは、まだ僕もテレビを見ていた)生きている日本人が交響曲を書いて、それが世間で売れたのだから、これは朗報である。「もっと優れた作品」を列挙して反論している人もいるが、まず、生きている日本人が交響曲を書いている事実が世間に広く浸透しなければ、それらの「優れた作品」も世間に顧みられることはあるまい。作曲家たちはもっと彼に感謝したらいかがかと思う。
 クラシックファンをのだめファンに出来た「のだめ」と比べ、のだめファンをクラシックファンには出来なかったクラシック業界の二の舞としないためにも、彼の成果を大事に活かしたら良いと思う。

 僕は、おそらく、この業界の誰よりも社会の底辺と親しく交わってきたと思う。
 そんな僕は、大衆酒場に行くと必ず知らない人に絡まれる星の下なので、その都度、自分の身上を説明する必要に迫られる。そこでかくのごとしと申し上げても、(まず僕の見た目がクラシックと縁遠そうなことに笑われるのは当たり前のこととして)「クラシックって今でも書いている人がいるの?」と驚きとともに返されるのが、普通だ。これからはこの説明が省けるのだから、なんともありがたい話である。
 さて。この驚きのあとに続く会話は、およそ2つのパターンに分類できる。
 ひとつは「オーケストラとかも書けるの?」と訊いてくるパターン。そんな彼は、僕が「書ける」と答えると「かっこいい」と素直に目を輝かしてくれるので、一杯ごちそうしたくなってくる。特殊技能と思われていることは、それがどんなに彼に縁の遠い世界のものであっても、酒場では尊敬の対象となるのである。
 もうひとつは、クラシック音楽そのものに疑問をふっかけてくるパターン。
 「音楽とは感動させるためにあるんでしょう?」
 「クラシックって学問になっちゃってるからダメなんじゃないの?」
 「それって自己満足なんじゃないの?」
 彼にとって、クラシック音楽は、堅苦しくて、退屈で、つまらなくて、ミイラを拝んでいる宗教のように見えているのだ。こちらも美味しく酒が呑みたいので聞き流すことにしているが、こちらの酒量とあちらのしつこさが掛け算されると、そうもいかなくなってくる。
 「もしも人を感動せしめる精神がこの世に存在するとすれば、それは人を感動させようなどという甘っちょろい精神性などというものをかなぐり捨てるところからしか生まれ得ません。音楽の大なることに感動するのは聴衆よりまず演奏家であり作曲家なのです。そして音楽から受け取ったものをそのまま聴衆に伝えるには身につけるべき課題は多く、献身的に学究の徒に徹して音楽を研究しなければならず、そこに自己満足など生じる余地は無いのです。」
 だなどと、ついつい冷静に言ってしまう。
 当然、さらに絡まれることになって、後悔する。
 ただ、彼が言いたいことの中身の、そのまた奥のほうの中身は、僕だって汲み取れなくはないのだ。彼があまりにもろれつの回らない舌でくだを巻くからイライラしながら返してしまうだけで。若者たちが衝動的に見よう見まねでギターを持ちたくなり、化粧をしてライヴハウスの舞台に立ちたくなるような現象が起きなきゃ、音楽として嘘だろう。言葉を変えて喩えれば、彼はそのようなことを言いたいに違いないのだ。たしかに、ウォレットチェーンをじゃらじゃら言わせながら東京文化会館にオペラを観に来る若者を、僕は見たことが無い。

 でも、モーツァルトもシューベルトも、ほんとうは今の僕より若いのだ。

 古典か現代か。古くから続く芸能の類いには、かならずこのような問いが付いて回る。
 立川談志も、かつて落語の枕でこのようなことを語っていた。現代人にも分かりやすくするために現代の要素を投入しすぎて、もう古典には戻れなくなったことを彼は嘆いていた。現代音楽もまた、現代人にとって聴きやすく、また弾きやすく書きやすい形にしたがって変化してきたという観点で顧みる必要があろう。
 しかし、だからこそ、古典というものは更に顧みられなくてはならないのである。
 古典というものは、誰にも登れない至高の極みゆえに残ったのではなく(誰にも登れない場所を誰がどうやってそれと認めることができるのか)、共感性のカタマリだからこそ残ったのであって、自分のことを棚に上げて言う文句は快感だ、などという枕草子は、実に千年も残ってしまうのである。
 お金をうまく稼ぐ方法だの、恋愛をうまくやっていく方法だの、アーティストが生き残るための方法だのと、マニュアル本の類いに満ちあふれている昨今ではあるが、これだって今の世に始まったことではなく、江戸の本にはむしろ沢山あった。だが、金を得たところで自由にはならないことを人は本能的に知っている。ゆえに、より多くの自由を与えてくれるものを、人は本能的に遺していく。それが今日に揃う古典の結果である。
 白州正子が著書「老木の花」で友枝喜久夫という能楽師を紹介している。芸術院会員でも人間国宝でもなく、晩年には視力を失ったので舞台にはちょっとした傷もあるが、いかにも能に縁遠そうな若いお嬢さんやジーンズ姿の若者、ネクタイ姿の会社員風を涙させて帰す。「ひたすら己を虚しうして稽古に打ち込んでいるからで、もはや芸というよりも魂の問題である」と、彼女は熱を込めて書いている。
 感動の強さゆえに業界に対する非難も苛烈で「能を難解なものにしたのはインテリが悪いので、世にもありがたい『芸術』に祭あげ、専門家がそれに乗っかって一種の権威主義を造り上げたのだ」とまで言う。僕はここまでの率直な物言いを避けるが、しかし、愛が人を滅ぼすこともあることを、僕は知っている。

 ずいぶんと話がずれた。
 佐村河内氏の作品が、どの程度にどれほどのものなのかを僕は知らない。ただ、音楽家たちの物言いを見聞きして非常に危惧を抱くのは、「聴衆は正しい」という大前提に則っている意見の少ないことだ。
 聴衆が感動したのであれば、それは感動したのであり、感動しなかったのならば、それは感動しなかったのだ。ただそれだけのことだ。僕だって、感動したと言ってくれれば嬉しいに決まっている。感動しなかったと言われれば、悲しいに決まっている。でもそんな僕の感情なんて聴衆のなかではまったく意味の無いことで、彼らが抱いた感想は彼らのなかで絶対的に正しいことなのだ。呑めない人に酒を出し、椎茸が嫌いな人に椎茸出汁の料理を出した僕のほうが、結局のところ、悪いのである。
 とは言え、僕は酒好きをやめられないし、椎茸だって嫌いにはなれない。これもまた僕のなかで正しいことである。なので僕は、来る日も来る日も、どんこを煮込むしかない。僕が腕を磨く努力を怠りたくないのは、椎茸好きの客に喜んでほしいからであるし、目を丸くして驚いてほしいからである。他の誰を後悔させてでも、彼らのことだけは裏切りたくないし、後悔させたくないからである。
 しかし、正しいということと、価値の有無とは別個の話である。ここを勘違いすると足を掬われる。足を掬われるのは聴衆だけではなく、演奏家も、作曲家もまた、同様である。自分の抱く「権威主義」をくすぐってくれるような物言いを好むようになれば、それは商売男に金を巻き上げられる哀れな女とたいして変わらない。クラシック音楽を活かすも殺すも、この業界の人々の「愛のカタチ」次第なのだ。
 この現状と問題を僕にまざまざと見せてくれた点においても、氏の仕事は、僕にとって価値があったと評価したい。この評価が良くも悪くも変わるのが怖いので、この先、僕はこれを聴くべきなのかどうか、とても迷っている。